sweet words of love.
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【2013/10/23 05:42】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(7)

秀外恵中:1

 ――――十代のころから分かっていたこと。

 真井初は、類まれなる才能と頭脳を持って生まれている。

 

 

 初めて初と会ったのは高校一年の時。初、と書いてはつ、とそのまま素直に読む名前は、長男で初孫だからつけられたと言う。その真井初は容姿をも、素晴らしく飛びぬけていた。

 高校一年にして百八十を超える長身。大きく切れ長ではっきりした二重目蓋の目は、瞬きをするたびに色気を放ち、長い睫毛が揺れていた。おまけに、その唇はいつも笑みを浮かべているような唇で、薄すぎず厚すぎない、魅力的な形。鼻筋は通っていて、日本人ではない雰囲気。

 真井初はアメリカ人の祖父を持つクオーター。顔立ちは日本人のような雰囲気で、もし祖父が外国人と知っていたら、外国人混じってる? と聞きたくなるくらい。ただ、体格は日本人のように華奢ではなく、細身なのだが体格は良かった。

 祖父がアメリカ人、というのは珍しい。今どきだったら、親がアメリカ人、というのは分かるが祖父が、だ。きっといろいろあったことだろうと思う。その祖父の血を確実に引いているのが、初だった。

 そして、何よりすごいのが、初の頭の良さだった。勉強は超進学校というのに、高校一年の時からトップの座を譲ったことがなかった。

 そして特記すべきものとしては、高校生というのに、すでにトップモデルとして世界へ羽ばたいていた。

 文武両道、眉目秀麗、四文字熟語にしたら、そんな感じの真井初。

 でも、一番しっくりくるのは、秀外恵中。

 頭が良くて、容姿も良い、という感じの四文字熟語。

 そんな初は、大学を卒業して、一度キッパリとモデルの仕事を辞め、弁護士として大手の弁護士事務所に就職した。そこでも、かなりの優秀さで、若いのに大手の企業や財閥のようなお金持ちを相手にして、信頼されていた。初でないとダメだ、というクライアントもいたくらいで、二十代にしてすごい収入を得ていた。

 モデルの時よりも年収は減ったけど、と言う初はとにかくすごい人。

 すごい人。

 高校の頃、三年間同じクラスだった。知り合い、というだけでも騒がれるのに、友達だった。

 人前に出るのが苦手で、いつも笑っているしかなくて。

 人から頼まれると嫌と言えなくて、いつも、へらへらしていて。

 自分が嫌いだった。

 光の中にいるような、頭も良くて容姿も良い初は、それだけでなく性格も極上に良かった。優しくて、よく気が付いて、物事をはっきり言えて、いつも笑顔。その笑顔も、へらへらしているような顔ではなくて、自然に笑みを浮かべていた。いつも、にこにこしていて、素敵な人。

 そんな初がモデルとして復帰したのは、二十七歳の時。

 復帰する前、最初はデザイナーから熱心に請われて、のこと。いわゆる、パリコレというもので、パリで行われた有名デザイナーのファッションショー。初は事務所に休みをもらって、ステージに立った。初のステージを見たくて、チケットを融通してもらい、休みをもらってパリへ行った。

 すごくカッコ良かった。

 ドキドキした。

 ずっとドキドキしている相手。いつも会っているのに、ドキドキする心は、高校生のころから止められない。

 何度も、初がランウェイを歩くのを見た。だから、ブランクがあっても変わらないのが分かった。

 ショーの最後に、デザイナーが一緒に歩いた相手は初だった。

 それだけでもすごいことだと思うのに、初はいつも同じ態度で、そう? というだけ。

 そんなところも、初の素晴らしいところ。決して偉ぶらなくて、出来た人。

 それから、初は弁護士をやめて、モデルに復帰した。

 あっさりと、職を変えた時はびっくりしたし、初らしくないと思った。初は、やり遂げる人だったし、あまり芸能界に良い印象を持っていなかったからだ。

 そうして、弁護士からモデルへと再スタートを切ったとき、二十七歳。

 再復帰だというのに、初は瞬く間に時の人となった。

 初が表紙の雑誌が並び、外国と共同で出しているような女性誌も、初が表紙となった。ファッションショーに何度も出て、海外へ行くことも多くて。最近ではガールズコレクション、というものにも出て、ランウェイを歩いていた。

 そうして一年近くたち、二十八歳となった初。その初日のことだった。

「初女ちゃん、映画観に行こうよ」

 初から初女ちゃん、と呼ばれてもう十年以上。

 八坂初女、という名前で、長女だから初という字が入っているだけの、ちょっと男っぽいような名前。

 初が身に付けている、スクエア型の黒縁眼鏡はダテメガネ。

 少しグレーっぽい色が入っているからか、顔を隠すのにはちょうど良い感じがする。

 その奥の目が笑って問いかけるのを見て、初女は少し戸惑った。

 誰も都合がつかなかった。初の誕生日のその日には、自分の時間を自分でコントロールできる初女だけが、祝うために待ち合わせ場所に来た。

 二人で会うのは初めてだった。十年以上の友達付き合いがあって、こんなことがなかったのが不思議だと思う。

 いつもは長男長女会のメンバーが誰かしら一緒だったからだ。

 長男長女会、というのは高校時代、三橋一世が作ったものだ。似たような漢字の名前のクラスメイトが、初女を合わせて四人いた。初と一世、初女と一乃。

 今は三橋一乃、となっている一世の妻は高校のころからの付き合いだ。

 以後緩慢に、少しずつメンバーを拡大し、現在のメンバーは総勢六人。

 また、長男長女会のメンバーは付き合いを深くし、長男長女同士の結婚確率が高い。

 一年後輩の有川一意と初子は、高校時代の後輩で初のファン、というところから長男長女会メンバーになった。二人もまた高校時代から付き合い、結婚に至った。

 初と同じ大学の宝井真一、そして一乃と同じ大学の加藤初音は、それぞれ大学時代に長男長女会のメンバーになり、二ヶ月後に結婚式だ。

「映画?」

「あ……えっと、映画じゃなくてもいいけど」

 にこりと笑った顔は極上。

 たまに、女の子や、男の人、そして他の人たちも通り過ぎざまに見ていく。

 きっと、真井初に似ている、もしかして本物? と思っているのだろう。だって、たまに女の子が口元に手を当てて、立ち止まってジッと見るときがある。

「立ち止まってると、目立つね、真井君」

 初女は初のことを真井君、と呼ぶ。

 ずっとそうで、みんなは初とか、はっつん、もしくは初さん、と呼ぶのに初女だけは真井君、だ。

 最初のうち、高校の頃は初でいいよ、と言われたけれど今はそれも言わない。初女の呼び方が直らないからだろう。

「ああ、そうだね。ごめん」

「謝らなくてもいいんだけど。……そうね、映画! 時間つぶしになるか」

 布のトートバッグの中に入っているのは、細長いケーキ。白い生クリームでデコレーションして、苺とベリーでトッピングした甘みを抑えたもの。

 本当はみんなで食べる気だった。前の夜に頑張って作っていると、それぞれに行けなくなったメールが届いた。でもケーキは作ってしまったし、どこかで食べられたら、と思って持ってきたのだ。

 今思えば初と二人きりで、と思う。

 渡して帰ればいいのだろうが、初一人で食べきれるかどうか。

 そう思っていると、困ったように笑い、眼鏡の奥の綺麗な二重目蓋が瞬きをして、首を振る。

「時間つぶしとか、そんなんじゃないよ。初女ちゃんと、一緒に観たいと思っただけ」

 間が持たない気がする。

 さっきから二人きりは初めてだから、何を話していいかわからない。

 初女はもともとそんなに人前に出る方ではない。休みの日は、何もなければ一日家で過ごすことが多い。溜まっていた録画番組を見たり、映画を見たり、ストレッチをしたりして過ごす。

 間が持たない気がするのは初女だけだろうか、と思いながら三十六センチも上にある顔を見上げる。

 初の身長は百八十八センチ。初女の身長は百五十二センチ。やや小さめで、ちょっと細すぎ、胸も小さめ。

 初と並ぶと、小人みたいに思える。

「ところで、そのバッグの中身、なに?」

「え? あ……」

 初がバッグの縁に人差し指をひっかけて少し開く。

 顔を近づけて見たからだろう、すぐに何か気付いたようだ。

「ケーキ? いつも作ってくれるやつ?」

 長男長女会のメンバーの誕生日会が出来るときは、必ずケーキを作って行っていた。

 持ち込みが出来る場所へ行き、ケーキを出していた。

「買い物、行こ?」

 にこりと笑った初は、初女のトートバッグを持ち上げた。

「え?」

「俺の家で、これ食べて、ご飯食べよ? テイクアウトの店行って、酒買って、一緒にいようよ」

 そうして初女の手を取って初は歩き出す。

 普段二人きりにならない相手。

 いつも、初女のことを気遣ってくれる初。

 今日も気遣ってくれたのだろう。きっと間が持たないから、こう言ってくれたのだろう。

 引っ込み思案で、言いたいことが上手く言えない初女。

 だからいつも、長男長女会のメンバーは、初女に気を遣っていた。

 今日限りで、長男長女会の集まりには、顔を出さないと、そう決めていた。

 顔を出さない、集まりの誘いがあっても断りを入れる、そう決めたのはほかにも理由がある。

 仲の良い友達は一握りで、長男長女会のメンバーのみ。

 その中の良い友達はすべてと言っていいほど結婚した。初と初女だけが結婚していないが、初は芸能界の誰かと結婚するだろう。いつも誰かの影が隣にある初だから、結婚はいつでもできるはずだ。

 論外なのは初女のみ。

 初女は引っ込み思案なだけでなく、あまり外を出歩かないし、今の独立した職業は翻訳家だ。

 周りのみんなが頭が良かったため、ついて行くのも必至で、努力して今の職業についたのだ。周りからは、教養高い女に見えるだろうけれど、要領が悪く毎日努力をしていて、実は仕事がそんなに早くない。

 みんな、性格も明るく、それなりに素晴らしい職業に就いた。

 弁護士、検事、外交官、警察官、など。

 お堅い職業だとみんなは言うけれど、そうは思わない。

 自分だけが何となく特筆すべきないところがあるから、頑張って今のようになっただけ。

 翻訳家という仕事もすごい、と思うこともあるけれど、周りと比べてしまう自分が暗くて情けない。

 だから、もう来ないと、そう決めた。

 初と会うのも、これが最後。

 

 

 テイクアウトの店は、アメリカナイズされた中華のお店。

 映画とか、海外ドラマに出てくるような四角の箱に入ったチャーハンや惣菜。

 それからピザと、お酒と、初女が作ったケーキ。

 用意した、二と八のろうそくを立てて、初の二十八歳最初の日を祝った。

 ハッピーバースデイの歌を歌って、ろうそくの火を消してもらったあとは、ケーキを切り分けて、食事タイム。

 もともとそんなに飲めないが、ほろよい系のカクテルは飲めるので、そのプルトップを開けて飲んだ。

 初は自宅に置いてあったワイン。

 初の自宅は広くてセキュリティも完備されていて、綺麗。

 掃除が出来ない時が多いから業者を入れているらしく、行き届いた綺麗さだった。

「真井君、ペースいっつも早い」

 少し酔った勢いで笑いながら言うと、白ワインをのみながら初女に視線を移す。

「そうかな。だって、ワインくらいじゃ酔わないから。初女ちゃんと二人で飲むの初めてだから、自粛してます」

「自粛?」

「そう、自粛。ウィスキー飲まないし、ウォッカ飲まないし、焼酎飲まないし自粛してるよ?」

「今日はワインだけ?」

 少し首を傾げて、少し声を出して笑って、だね、と言った。

「ワインだけにする。酔って醜態は見せたくないので」

 そう言って笑いながら赤いワインを飲む。

 ワインセラーと言うには少し遠いが、それ専用の冷蔵庫があって、いつも二十本ほど常備している。お酒好きの初らしいことをしているな、と思っていた。

「お酒飲むのに太らないね」

「長風呂とジムと、食生活で何とかね。ジムは欠かせないし、身体が資本だから。もともと太らない体質だけど、だからと言って好き放題は出来ないしね。弁護士の時と違って」

 でも、と言ってワインを飲んで溜め息。

「ジャンクフード大好きなんだ。なんで世の中あんなものがあるんだかね。もう、大好きで、食べたいけど……一年位前から我慢してる。なんで、モデルなんかまた始めたかなぁ、ってマックの前通るたびに思う」

「今日、ピザ食べてるよ?」

「今日は誕生日。だから特別だ。初女ちゃんもいるし」

 にこりと笑って、向かい合ってこんな近くで飲むのは初めて。

 いつも初から離れている。傍にいるとなんだか気おくれしてしまうから。

 でもいつの間にか傍に来ていることが多い。そしてまた席を離れての繰り返し。

 初だけでなく、長男長女会のメンバーにはいつも気おくれ。本当に、みんなに釣り合うように努力して今の職業に就いたけれど。でも、釣り合うように努力してよかった面もある。ずっと続けられる仕事だから。

「明日、お仕事はないの?」

「オフだよ。今日から三日間オフにしてもらった。誕生日休み欲しいって言ったら、マネージャーが都合してくれて。……今日はみんな集まれなかったけど、初女ちゃんが来てくれて嬉しいよ」

 嬉しいって、と思いながら缶に唇を当てて飲む。

 嬉しいと言ってくれて、初女も嬉しかった。でもこれが最後と決めていて、初女は顔をうつむけた。

「真井君、私が独立したの知ってる?」

「ん、知ってる。すごいなぁ、って思ってた」

 本当にすごい、という風に言ったのを聞いて、そんなことないと思う。

 本当にすごいのはみんなだと思う。特に初は秀でているけれど。

「でね、仕事忙しくなるの。これから、長男長女会のメンバーとも会えなくなるかも。連絡も、ちょっと滞るかな……。独立したから仕事がんばらなきゃいけなくて。連絡がつかなくなっても、ちゃんと生きてるから。……それと、引っ越しもしなきゃいけなくて。今よりも少し安くて手狭なところに、引っ越すんだ」

 綺麗な二重目蓋が瞬きをした。ワイングラスをテーブルに置いて、初女の名を呼ぶ。

「なんか、いなくなるみたいなこと言うね」

「いなくなるんじゃないってば。私、お仕事頑張らないとダメなの。お仕事優先じゃないと、食べて行けないし。もともと苦手だった人付き合いから少し解放されるから、その分、ね」

 独立は人付き合いのせいもあった。

 出版社に勤めて、翻訳以外の仕事もした。

 だからこそ力になったから、会社には感謝している。

 そして、長男長女会に顔を出さない理由にもなる。

「……分かるけど、連絡がなくて会えないのは、嫌だから」

「電話あるよ。メールして」

「俺、初女ちゃんが携帯変えて、メールアドレス知らない。ラインも、初女ちゃんしてないし。みんなから言われても、いつも笑って苦手だからって」

 初と直接連絡することはほとんどと言っていいほどなかった。だから二年近く前に携帯電話を変えた時、初にメールアドレスを教えなかったな、と思い出した。

「何回言っても教えてくれなかった。他のメンバーも知らないって人、いるし」

「だって、真井君にメールすることないでしょ?」

 あ、と思ったけれど、言ってしまった言葉は取り消せない。

 初の表情が固まるのを見て、しまった、と思う。

「ごめんね。でも、ほとんどメールも電話もしたことないし。真井君も、私にしないでしょ?」

 顔を反らして言うと、初がテーブルを動かした。

 ラグの上に座って、小さなテーブルを出していた。初女の後ろはソファーで、背もたれ代わりに使っていた。テーブルがなくなると一気に初との距離がさらに近くなる。

「しないんじゃなくて、したくてもできなかった。初女ちゃん、俺のこと避けてる。最初から、高校の時から、ずっと。俺のこと、嫌いじゃないのは分かってるけど、さすがに今回は傷つくよ」

 真剣な顔をしてそう言われて、ちょっと怖くなる。手にしていた缶を置いて見上げると、初は初女の髪の毛を触った。

「高校の時から、好きな女に避けられまくってて、だから好きじゃない人に手を出すしかなくて。今もずっとそう。もう十年以上、ずっとだ。で、今回やっと二人になれた。いつも、二人になろうとするのが、わかるのか知らないけど断られてたし」

 初と二人になろうとしたことはたくさんあった。

 そういう感じの時は、私も来ない、と言っていた。

 今回は、たまたま、偶然に初と二人きりになった。

 高校の時から好きな女に、というくだりを聞いて、まさか、と思う。

 何度も違う、と思うが初女のことのようにしか思えない。

 普通の女で、人付き合いが苦手で。

 彼氏を作ろうと思ったときがあって、そして彼氏が出来て。出来たら出来たで、身体の関係を一回持ったあと、別れられた。面白みがなくて、セックスも良くない、と言われた。二回目の彼氏も同様で、それでも半年付き合ったが、別れを切り出された。一緒にいても楽しくない、と。

 最初の彼氏は、捨てられた感があったし、全て初めてだった。

 そういう思いも長男長女会の人に話せなかった。もちろん、彼氏がいたことも内緒にしていた。だから、初女に誰も彼氏がいたなんてことは知らないはずだ。

 特に初には、彼氏が出来たなんて、話せなかった。

 憧れていて、誰にも分け隔てなく優しくて気さくで、人気者の初には。

 だから、こんな初女だからまさか、と思う。

「今日は、もう我慢するのはよそうと思ってたんだ。みんなに、協力してもらった。初女ちゃんと一緒に過ごせるように」

 初女と一緒に過ごせるように、という言葉は結構衝撃だった。

「初女ちゃんが、ずっと好きだ。付き合ってほしい」

「付き合わない」

 即答だった。

 だって、初女は確かに初のことを思っている。

 でも、初は初女が隣にいて似合うような人ではない。

「真井君、芸能人だし。世界的にも有名なモデルが、こんな、あんまり可愛くない私となんて、ダメだよ」

「初女ちゃんは、最初から可愛いよ。なんでそんなこと言うのかな……モデルに復帰したのは、初女ちゃんがすごくカッコイイって言ったから。デザイナーに懇願されて出たショーの時、一乃と一世と一緒に、見に来てくれた。あの時、君がカッコイイって、すごく顔を紅潮させて……あんな笑顔を俺に見せたのは初めてだった。初女ちゃんがそうやって笑顔でいてくれるなら、また復帰しようって、そう思った」

 確かにカッコイイ、と何度も言った。

 だって本当にカッコよかったのだ。

 それからほんの三ヶ月後にはモデルに復帰していた。

 復帰がそんなに簡単なことじゃないって、何となくわかる。でも初はそれを難なくやってのけるから、さすがだと思った。そんな初だから、余計に思う。

 似合わない、と。

 それに、怖い。

 今まで十年以上もずっと友達だった。

 もしも、と思うのだ。

 もしも、今まで付き合った二人の男の人のように、面白くない、セックスよくないなんて言われたら、と思う。

「私、面白くないし。付き合っても、楽しくないし……真井君を満足させられないと思う」

「それは、初女ちゃんが決めることじゃない」

 身体が近づく。

 逃げようと思っても逃げられないのは、後ろのソファーのせいだ。

 瞬きをして、は、と息を吐くと頬に触れられた。

 キスをされると思った。

「ずっと見てたのに、そんな面白くないとか、楽しくないとか、そういうことで初女ちゃんを評価しない。ずっと、見てたんだよ。欲しくて堪らないくらい」

 言われながら初の顔が近づく。

 瞬きをしなければ直視できないほど、素敵な顔が近づく。

 近くで見ても、顔が小さい。頭も小さくて、初は何頭身なのかとおもうくらい、素晴らしいプロポーション。

 神様がそうやって作ったのだと、思うくらい。

 唇が柔らかく触れた。

 キスはあまり好きじゃなかった。唇を這う、感触が好きじゃなかった。

 でも初の唇はそうではなく、柔らかく触れ、それから唇をゆっくりと啄むように触れた。

 それから、ゆっくりと唇が深く重なる。まるで初女の警戒心を解くように。

 でも、こうやって唇を重ねる相手じゃない、という思いが初女を動かした。

 だって、初はきっと初女を捨てるに決まってる。

 トラウマかもしれないが、面白みも何もない初女だから、そう思う。

「はな、して!」

 身体を押すと、唇が離れる。

「初女ちゃん」

 でも大きな手が初女の肩を掴むので、ちょっと暴れた。

 離してほしいから。

「……った!」

 初女は目を見開く。

 知らず、初の唇のあたりを引っ掻いたらしい。

 血が出ていて、その部分を手で押さえているのを見て、やってしまった、と思う。

 初は、容姿を売りにしている仕事をしているのに。

「ご、ごめんなさい!」

 ただ謝って、でもこの場所にいられないと思って。

 初女はバッグを持って靴を履いて、全力で。

 逃げた。

 

 

☆私の小説、ネガティブな人多いなぁ。

 ごめんなさい。

 読みごたえあれば、拍手、コメントをお願いします。

 二話目は初視点、かな?

【2013/10/15 16:10】 | 秀外恵中 | トラックバック(0) | コメント(6)

Lipstick on someone's collar:2

「今日からよろしくお願いします、桐嶋副支社長」

 秘書課に配属された初日、いきなり副支社長についてくれ、と言われて緊張した。

 入社時からよく知っているが、細かいところまで知らない。たとえば性格とか、食べ物の好みとか、どんな感じで仕事をしているのか、など。

 そう思いながら、恋愛じゃなくて仕事なのだ、と思って背を伸ばす。

「今日の予定は?」

 低い声で言われて、手帳を開く。仕事用に一冊持って置いて、と言われたのは課長になった佐々木京香から。みっちりかけるスケジュール帳を開いて、口を開く。

「午前中は書類の整理と、経理部門の部長が、お話しがあると。午後からは定例会議で、各部門の部長と課長が来られますので、時間厳守でお願いします。それから、支社長が午後の遅い時間から社を空けられますので、以後よろしく頼むとのことでした。あと、情報管理部門の部長が、相談を、と先ほど言われていて。他にも、今回動いた人事の件で、人事部門の課長、笹田が書類に不備がある、と言っていまして。あとですべて持ってくる、と伝言を受けました」

 なんとか本日の予定をすべて言えた、と思ってスケジュール帳を閉じる。

 頬杖をついた副支社長、桐嶋藍獅は椅子に座ったまま、じっとこちらを見上げる。

「それ、全部俺にやれと?」

 全部やれと? と言われて、正直戸惑う。どれだけ時間がかかるのかよく分からないが、どう答えていいかわからないので、一応笑顔を浮かべて、はい、と言った。

「ご都合悪ければ、後日でもよろしいかと思うのは、人事の不備の直しくらいですが」

「……」

 そこで沈黙してしまって、どうして良いかわからない。変な油汗が出そうで、背に力を込める。

 人差し指でコツ、コツと机を弾いて、溜息をついてこちらを見る。

「今日は予定がある」

「……は、あ、はい、どのような?」

 聞き返すと、桐嶋はこちらを見てから、にこりと笑う。

「何だと思う? 神田」

 男らしい低い声で、初めて名を呼ばれた。これできちんと会うのは二度目だが、これからずっと顔を合わせるのだ、と思う。そう思うと琳は心の準備をしなければ、と思う。

 仕事ができるこの人に、失望されたくなかった。

「プロレス観戦、でしょうか? もしくはその関連の番組があるとか?」

 桐嶋は格闘技を見るのが意外と好きだと、そういう情報を佐々木から聞いていた。

「違う」

「では、野球観戦、もしくはサッカーの番組? あとはゴルフ、とか?」

 スポーツ観戦もある程度好きで、早く帰りたいと言う日がある、とも聞いていた。

「違う」

「では、その、デート? とか?」

 周りの噂で、女性関係に不自由してない、と聞いたことがある。確かに不自由しなさそうな容姿をしている。支社長篠原よりもややいい体つきをしていて、スタイルがいい。何より背も高くて、足も長くて、というところを見ると、誰もが放っておかないのが分かる。

「俺はこの前、女と別れたばかりだ」

「……そうですか……失礼しました」

 本当に失礼なことを聞いたな、と桐嶋の口から別れ話を聞いて思った。やはりこの前まで隣に誰かいたのだな、と思って、噂はあながち嘘じゃないかも、と思う。

 そうしてまた沈黙して。当ててもらうのを待っているような気がして、けれど思いつかない。視線を巡らせると、オフィスの電球の一つがチカチカしていることに気付く。それに気づくと意識はそちらに行ってしまって、琳は桐嶋を見た。

「すみません、あの電球、換えてもよろしいですか?」

 琳が言うと、桐嶋もそちらを見る。

「そうだな、換えてもらうか」

 琳は手持ちの社内電話をかけた。するとワット数を聞かれたので、そこまで言わなければならないのか、と思ったが、分かりました、と電話を切った。

「どうした?」

「ワット数を知りたい、と言われて。ちょっと確認します」

 桐嶋は無言で頷いたので、琳は一度オフィスを出た。すぐ近くに備品室があって、そこに何があるのかなんて、前日に見て把握していた。そこから脚立を取り出して、桐嶋のオフィスに戻る。

 ドアを開けて入って、桐嶋は目を丸くしたが、琳はそれに首を傾げるだけで応えて、脚立を開いてその上に登る。

「お前、何してる?」

「ワット数の確認ですが? 申し訳ありませんが、電気を切って頂けますか?」

 桐嶋が琳を見たまま電気のスイッチを切った。それを確認して、脚立の上で足をかけて、電球を覆うカバーを取ってから、電球を取った。

「百ワットみたいです」

 琳はそう言って、脚立に足をかけたまま社内電話でワット数を指示した。すぐに換えに来ると言われたので、電話を切った。

「エロいことするなよ」

「……どこがです?」

 エロいと当初から言われて、それが不本意だと分かっているだろうに、これで二度目だった。

 脚立から降りて、それを畳んでいると、その横から脚立を奪われて、溜息をつかれる。

「意味が分かりません。ただ脚立に乗っただけで、どこがエロいというんですか?」

「タイトスカートで脚立の上に乗るなよ。よっぽど足に自信があるんだな」

 タイトスカートで乗るな、と言われてそして気付く。

「見えました?」

「何が?」

「下着、とか」

 思わずスカートの裾を引っ張って、足を隠す。しかし丈には限界があるので、これからはタイトスカートをよしておこうか、と思ってしまった。

「見えてないが、足は太ももの半分は見えてた。恥ずかしいのなら、もうするなよ。管理には俺が注意する」

「何を注意するんです?」

「ワット数くらい、把握しとくように」

 脚立を持ってオフィスを出て行く桐嶋を見て、は、と気付いて後を追う。

 上司に片付けをやらせてしまった、と思って、上質なスーツを着ている後姿を見る。

「副支社長、片付けは私がしますので!」

 琳が言うと、後ろを振り向いた桐嶋、呆れた顔を向ける。

「ここまで来ておいて?」

 倉庫前まですでに来ていて、桐嶋はそのドアを開ける。

「場所、分からないですよね? 返しておきます」

「場所とか関係ないの知ってる。離せよ、神田」

 脚立を持っている桐嶋の腕を掴んでいた。が、琳は離さなかった。

「副支社長にこんなこと、あの」

「させたくないなら持ってくるなよ」

 そうして倉庫に入ろうとする桐嶋が腕を解いた。

「二人とも、何してる?」

 後ろから男の声が聞こえて、琳が振り返ると、課長の佐々木と支社長の篠原壱哉がいた。

「藍獅、なんで脚立持ってるんだ?」

 やはりそこを突っ込まれて、琳は脚立を持った桐嶋を見る。桐嶋はそんな琳を笑って見て、篠原に身体を向けた。

「神田がいきなり脚立持ってきて、電球換えようとしたんだ」

 佐々木は目を丸くして、篠原は苦笑して琳を見る。

「それは、大変だったね、藍獅」

 琳を見ながらそう言うのがどうしてなのかわからない。

「神田さん、その恰好で脚立に乗らない方がいいと思うよ」

 篠原はそこで言葉を切ってにこりと笑う。

「そうね。タイトスカートはちょっと。パンツスタイルだったら、ね」

 佐々木も苦笑してそう言った。

「でも、神田さん人事部でも結構電球換えてたらしいものね?」

 佐々木がそう言って、綺麗な唇を綻ばせる。

 確かにそうだった。人事部のオフィスに管理が来るのがなぜかいつも遅かった。電球一つ換えてもらうのに、二時間くらい来なかったこともある。だから琳は待つよりも動いた方がいいので、自分で電球を交換していた。

「タイトスカートで?」

 篠原がそう言って琳を見たので頷いた。

「毎回、足見せてたのか?」

 桐嶋が琳の足を見る。桐嶋の目線が、足に行ったのを見て、琳は一歩後ずさる。

「そ、そんなわけないでしょう! 足を見せるために、電球交換をしたわけではありませんから。そんな、そんな目で見ること自体、不真面目です」

 いったいどこを見ているのか、と思う。足を見せるために電球交換をしていたわけではないし、きちんと真面目な理由があったのだ。

「何でそこで切れるんだ?」

「切れてないです」

 入社時から目が離せなかった人は、琳とは違っていた。何度か会っただけでも分かる。

 そうして、思わず吹き出したように笑ったのは篠原だった。次いで佐々木も笑って琳を見て、桐嶋を見る。

「気の毒に」

 桐嶋を見てそう言ったので、何が気の毒なのか、と思いながら支社長、篠原を見る。

「神田さん、各部署の社員には社員の仕事がある。確かに電球が切れていて、気になるだろうけど、君の仕事をそれだけのことで煩わさせたくない。気がついてすぐ行動するのはさすがだけど、管理の仕事は管理に任せてほしい」

 ピシャリと言われて、はい、と頷いた。

「と、桐嶋は後で注意するつもりだったと思うけど」

 篠原がにこりと笑って琳に言った。

「あと、こういう仕事をする暇があったら、俺が今日、五時に退社できるように動いてくれ。いいな? 神田」

 脚立を片づけながらそう言われて、結局桐嶋にさせてしまった、と思う。

 それにしても。

「五時、退社ですか?」

 いくらなんでも、と思う。琳だって五時退社を果たしたことはない。

「僕も、五時退社予定だから」

「私も五時には帰りますよ。神田さん入って来たけど、結局は石田さんが出て行ったし。神田さんに働いてもらわないと困るわ」

 そこでピンと来たのは、この人たちはきっと夜に食事か何かをするのだろう、ということ。

 だから予定がある、と桐嶋は言ったのだ。

「わかりました、お任せ下さい。がんばりますので。誰かと、お食事、ですよね?」

「食事?」

 聞き返したのは篠原で、琳は真面目に、はい、と言った。

「予定があるとおっしゃってましたので、誰かとお食事、かな、と。勝手に女性の方とだと思ったんですが」

 琳が苦笑気味に言うと、本当に可笑しい、と言うような感じで、篠原が笑う。

「篠原さん、笑ったらダメですよ。大体、桐嶋さんに神田さんをつけると言ったのは、篠原さんですから」

 と言いながらも、佐々木も、さも可笑しいと言った感じで笑う。しかも、二人とも桐嶋を見て言うから、琳は首を傾げてしまう。

「お前たち、覚えてろよ。神田、勘ぐりすぎだ。もっと素直に考えろ」

 余計なこと、と言われて、デートのことだ、と思った。琳は顔を伏せて、桐嶋に謝る。

「いい意味でも、悪い意味でも、真面目すぎる」

 呟いた桐嶋の言葉に、ズキリ、ときた。

「とにかく五時ダッシュ、がんばりましょう、神田さん」

 佐々木から言われて顔をあげて、はい、ともう一度返事をする。

 いい意味でも、悪い意味でも、真面目。

 よく言われるセリフに、最近傷ついたのは、一週間前だった。

 異動を告げられて、三日後のことで、琳はその日、落ち込みに落ち込んで。

 泣くのはやめようと、これくらいのことに振り回されるのはやめようと、思ったのはこれも三日前。

 けれど、いつも見ていて憧れを持っていた人から言われたセリフは、いつになく痛かった。

 

 

「副支社長、五時です」

「これにサインしたら終わり?」

「はい、終わりです。お疲れ様でした」

 やや右上がりの文字は、本社提出用のためローマ字で書かれている。書類を琳に差し出して、それを受け取った。確認して、ファイルに入れて、あとで郵送する手続きを、と思っていた。

「神田も終わった?」

「はい、終わりです」

「この後、暇か?」

「いいえ、予定があります」

 琳が言うと、桐嶋が椅子に座ったまま怪訝そうな顔をする。

「佐々木は予定がないと言ってたけど」

「確かに予定はないですけど、個人的に社に残って調べたいものがあります」

 この人はどうして自分の予定を知っているのか、と琳は内心首を傾げたが、それでも笑顔で対応した。

「今日しなければならない?」

「秘書課初勤務ですので、まだ慣れないことが多いですから。それよりも、副支社長は予定がおありなんでしょう? お帰りになられては?」

「佐々木が五時ダッシュ、と言ってただろ?」

「私はできませんので」

 琳がそう言うと、あからさまにため息をついて、腕時計を見る。青いフェイスの時計は、誰もが知る高級ブランドの時計だった。さすがだな、と思いながら琳は一歩下がって頭を下げる。

「失礼します」

 琳が去ろうとすると、名を呼ばれて振り向く。

「神田、調べ物は今度にして。仕事の予定が入っていたのを忘れていた」

「今から、ですか?」

「今から、社の重役たちと会うことを、言うのを忘れていた。付き合えるか?」

 秘書課に来て初めての勤務。まだ分からないことだらけで、実は失敗も何度かあった。けれど、大したものじゃないから、と桐嶋は何も言わなかった。今日の振り返りをして、よく使う内線番号をメモしてから帰ろうか、と思っていたのだが。社の重役ということは、部長クラスもしくは課長クラス。ついて行かないわけにはいかなかった。

「わかりました。ロッカーに戻って、荷物を取ってきます。直帰でよろしいですよね?」

「ああ」

「では、ロビーでお待ちしています」

 琳はもう一度頭を下げて、秘書課のオフィスへ向かった。オフィスは支社長室、副支社長室と近く、人数も少ないので綺麗に整頓してあった。特に課長の席は綺麗にしてあって、感心するほどだった。人事部の時は琳がよく片付けをしていたのだが、すぐに散らかってしまっていた。

「お疲れ様、神田さん。今日はいきなりで悪かったわね」

 にこりと笑った光る唇。佐々木は長年秘書課勤務だが、さすがにそれは頷けるような美人。そして何より配慮が上手で、社長クラスの二人が頼りにしているのが分かる。それに、親しいのだろう。篠原と桐嶋を、さん付けで呼ぶのはこの人だけだった。

「いいえ、勉強になりました。副支社長、仕事が早いので、驚きました」

「昔からよ。篠原さんは頭で動くタイプだけど、桐嶋さんは勘で動くタイプだからね。時々、突拍子なのが玉に瑕だけど。ファインプレーが多いから、すごいのよ。この前なんか、マーケティング部にちょっとした助言をしたら、それが好評で売り上げが上がったのよね」

 その話は聞いたことがあった。ただ、関連商品に関連グッズをつけただけなのだが、その関連グッズをつけるとコストがかかる、ということで揉めていたらしい。けれど、最後にゴーサインを出したのは支社長で、結局はそれで売り上げが格段に伸びた、ということ。そのことを知って、桐嶋が言った言葉も、噂で流れた。

『そうなんだ? 驚きだな』

 まるで責任のない言葉に周りは唖然としたが、支社長だけは笑った、というエピソード。

「それより、神田さん、帰れる?」

 周りを見ると、すでに帰る準備万端の秘書課の面々がいた。

「神田主任、この後、飲みに行きませんか?」

 そう言って誘ったのは、琳より三歳下の桜井朱里。綺麗系の顔立ちで、明るい性格の彼女はマーケティング部から去年異動してきた社員だった。マーケティング部門の異動担当は琳だったので、よく覚えている。そしてたった一日仕事をしただけだが、さすがに気配りが上手かった。桐嶋も信頼しているようで、二度ほど彼女に、琳もお世話になったのだ。

「ごめんなさい。これから副支社長のお供で、行かなければならなくて」

 目をパチパチさせて、その視線を少し泳がせる。

「そうですか。残念です。また今度、よかったら」

「ありがとう。今度ね」

 琳は自分のバッグを持って、中にスケジュール帳を詰める。

 そうして一足先にオフィスを出てから、一階のロビーへ向かう。

 すでに桐嶋は待っていて、琳はそばに急いで行った。

「遅かったな」

「桜井さんに、誘いを受けましたが、断りました」

「……やるな、桜井。だが遅かった」

 何の事だかよく分からないが、桐嶋は一人掛けのソファーから立ちあがって、自分のバッグを持った。

「いったいどこで、お会いに?」

「そこら辺の店だと思う」

「……そうですか」

 店の名前を知らないのは、と思いながら、誰と会うのかさえ聞いていない。けれど、今から聞くに聞けなくて。これからはきちんと聞いておこう、と思った。

 何も言わずに桐嶋の後をついて行って、ため息が出る。

 一日この人についていて、出来たことは少ない。主任という立場なのに、何かができたかと言われれば、それは出来なかったと言うしかない。まだ初日だからこんなものだろう、と自分に言い聞かせて、息を吸って前を見る。

 これからだから、と思いながら。

 

 

 琳は桐嶋の車に乗って移動した。いわゆる高級外車に初めて乗って、かなり緊張した。男性の隣に乗ったことがなく、一応琳も車の免許も車も持っているが、誰かと一緒に乗ったことはなかった。

「この駐車場に停めるか」

 スムーズに駐車場に入って、車を停めた。人通りの多い駐車場で、空いていてよかったと思う。車を降りる桐嶋の後ろをついて行って、大きなオブジェが置いてある広場に出る。

「神田、ここで待っててくれるか?」

「あ、はい」

「すぐに戻る」

 そう言って桐嶋は人の中に紛れてしまった。きっとここまで来て琳を置いて行ったのは、近くに分かりやすいものがあるからだろう。琳はオブジェの近くに立って、自分の腕時計を見る。やや薄暗くなってきていて、時間は午後六時を回っていた。一つ息をはいて、周りを見る。

「今日は週末だった」

 金曜日の夜だから、人が多い。土日休みなのが多いからだろうが、と思いながらため息が出る。

 一週間前の、あの時も金曜日だった。

 二年間付き合った人と別れた日。いつか結婚するのかもしれない、と思ったけれど、真面目な琳が彼には重たかった様子で、それをはっきり言われた。

 同い年で高校時代一緒のクラスだった人。二年前に同窓会で再会して、付き合うようになった。それなりに楽しくて、互いに好きだったと思っていたけれど、相手はそこまで思っていなかったらしい。

『真面目すぎるんだよ。付き合うイコール結婚なわけ?』

 ああ、重たかったんだ、と思ったのは別れ話の時。琳は普通に考えていたことで、だから一度だけそう言ったことがある。結婚を考えているなら、自分は無理だと言われて、琳はその場では泣かなかったが、家に帰って散々泣いた。

 そうして考えていて、桐嶋が戻ってこないのに不安を覚えて、辺りを見る。

「琳、じゃない?」

 振り向くと、よく見知った相手が遠くから歩いてきた。

「やっぱり琳だ。こんなところで何してんだ?」

 気軽に声をかけられて、琳は思わず固まった。

「人を待ってるの。今日は用事があって」

「そっか。俺はこれから飲み会。琳、ちょっと痩せたな」

 確かに少し痩せた。けれど、それは目の前のこの人のせいだった。

 一週間前まで、琳の彼だった人。こんなに気軽に話せるなんて、と思いながら、琳は距離を取る。

「誰と待ち合わせ? 男?」

 無神経、という言葉が浮かんで、でもこんな人だったな、と思う。琳は首を振って、さらに距離を取ったが、相手は距離を詰める。

「なんだよ、どうしてそんなに逃げるわけ?」

 手を掴まれて、その手を引くが、すぐには離れなかった。少し強めに引くと、離れたが。

「神田?」

 後ろから桐嶋の声がして振り向いて、思わずホッとして笑みを浮かべた。桐嶋の方へ行くと、なんだよ、と後ろから声が聞こえる。

「男、いるじゃん。っていうか、二股だった? 真面目そうなふりして」

 桐嶋が琳を見る。琳は後ろを振り向けなかった。顔が歪みそうで、というか歪んでいたと思う。

「口説いてる最中なんだ。真面目だから落ちなくてね。君、前の男?」

 桐嶋がそう言って、琳の肩を抱き寄せた。近くに桐嶋の身体を感じて、スーツに顔が近づく。煙草と、それを消すためだろう、香水の香りがして、琳は唇を噛みしめる。

「面倒だよ、結婚してとか言ってくるかも」

 どうしてそんなことを言うのか、と思う。けれど、こういうところをよくたしなめていて、それが喧嘩の原因にもなっていた。結局、琳が謝って、喧嘩を終わらせるけれど、そこが琳にとっては不満だった。

「見たところ、君よりも生活力があるから、大丈夫だろ。真面目で貞淑な妻が俺の好みなんだ」

 桐嶋がそう言って琳を見る。琳のために言ってくれた嘘だが、けれど何よりこの前まで付き合っていた、彼の言葉が痛かった。

 そうして、何も言わずに去っていくのを感じて、歪んだ顔から涙が零れる。

 二年も付き合っていたから、ただそういうことを考えただけ。そういうことを考える琳の性格を分かった上で、二股なんて言ってきて。

「あれ、元彼?」

 琳は涙を拭きながら頷いた。

「男を見る目、ないな」

「わかってます」

 分かってたけど眼鏡と一緒でフィルターを掛けてた。琳はバッグからハンカチを出して、頬を拭って顔を上げる。

「もっと自分が尊敬できる男と付き合えよ。神田の性格から見て、格が違いすぎるだろ」

「わかってます」

 どちらかというと、収入も琳の方が上だった。それに、その思考ももちろんそうだった。

 琳がそう言うと、桐嶋はため息をついて、琳を見る。

「今日は飲んで忘れることだ」

「……今日は社の重役の方々と会うのでは?」

 琳が桐嶋を見上げると、にこりと笑ってそうだ、と言った。

「今から重役たちと飲み会だ。本当はサプライズだったんだけど、まぁ、いいだろ。神田は真面目だから、歓迎会なんていいですからって言いそうだと、佐々木が言ってた。だから内緒で歓迎会を企んでたんだけど。知らないふりして、店に入れよ? いいな?」

 軽く背を押されて、桐嶋と一緒に歩きだす。琳は桐嶋の話を聞いて、涙が乾いてしまった。歓迎会なんて、確かにしてもらわなくていいと思っていただけに、恐縮する。

「重役たち、って誰ですか?」

「支社長、壱哉。それからマーケティングの宮川と人事、カスタマー兼任の偉智依。宮川の旦那、経理主任の坂下。カスタマーの課長、水川さんは来るかな? あとは、秘書課の佐々木以下すべてと、元課長の春海が来る予定だけど。もしかしたら他にも増える可能性あるんだ。みんな飲み会好きだし」

 桐嶋が歩きながらさらりと言って、琳は心の中で、なんで、と思った。

「私の歓迎会に、どうしてそんな……その、会社を仕切っている人たちが来るんですか?」

「それだけ世話になるからだ。神田主任、どうぞよろしく、ってこと。よきにはからって欲しい下心をもあるから、たくさん飲んで食べていい。それに、春海の送別会も兼ねてる」

 そうして歩いて向かった先は、ただの輸入住宅のような感じにしか見えなくて。けれど、小さな看板がそのドアにかけてあるから、店なのだと分かる程度。

 桐嶋がドアを開けると、そこは玄関というよりも大きなフロアで。

「遅かったな」

 目の前でクラッカーを鳴らしたのは篠原で、桐嶋はその中身を盛大にかぶって、悪かった、と言った。

「歓迎! 神田主任!」

 その後ろでいくつものクラッカーが鳴って、琳はその歓迎の仕方に目がくらむ。

 桐嶋から背を押されて、店の中に入って、桜井が側に来る。

「よかった、ちょっと遅れたけど、来てくれたんですね。ヒヤヒヤしました。幹事私なので、何か頼む時は言ってくださいね!」

 そうして腕を引かれて、並べられたお洒落なテーブルの前に座らせられる。

 目がくらんで、そしていかにも歓迎されているようなその様子に、先ほどの気持ちはほとんど薄れてしまった。そして、よく見知った人事の部長若木が隣に座って、お疲れ様、と言った。

「藍獅についてたみたいだけど、大丈夫だった? 今日は何もやらかしてないよね?」

 言われて首を傾げて、桐嶋が、偉智依、と咎めるような声を出す。

「俺がいつもそういうこと、してるように言うなよ。偉智依だって結構やるだろ?」

「っていうか、私たち同期はみんなやらかすわよねぇ。でも、人事は篠原の責任だから、知ったことじゃないけど」

 そう言って琳の隣に座るのは宮川で、マーケティング部の部長。女ながら本当にすごい人で、よく人事でも話しに出てくる人だった。

「ファインプレーも楽しんでるけど、やりすぎないように。ある程度は許すけどね」

 そうして目の前に座ったのは篠原で、その隣に桐嶋が座る。

 席を立つのにも気を使いそうな、そんな面々に囲まれて、自然に身体が縮む。

「春海は? 朱里ちゃん」

 遠くから佐々木の声が聞こえて、後ろを向くと、カウンターの中に入っていた、そして、ビール瓶とワイン瓶を琳の前に置いて、何やってんのかしら? と言った。

「もうつくと思います。メールが入ってました」

 琳が移動する少し前に退職した春海空という秘書課の課長は、支社長篠原と後ろ姿がよく似ている人、というのを覚えている。

 そしてドアの出入り口にあるベルが鳴って、長身のカッコイイ男が中に入ってきた。

 入ってきてそして、周りはため息をついて、春海、と篠原が言う。

「もう一回、やり直し。一回外に出ろ」

「なんですか、篠原さん」

「十秒後、入ってこい」

 分かりました、と言って一度外に出る。そうしてクラッカーを朱里が目の前に並べて、それを一つずつそれぞれ取る。琳も取るように言われて、みんなそれを構えた。

 春海が入ってくるのを見計らって、そして一斉にクラッカーを鳴らす。

「退院おめでとう! 春海課長!」

「……どうも、っていうか心臓に悪い送別会ですね」

 そう言って苦笑して、篠原の隣に座って、その隣に朱里が座る。

 退院ということは入院していたのだろうか、と思った。

 そうして目の前にワイングラスを置かれて、中に赤い液体を注がれる。にこりと笑ったのは、ハーフのような顔立ちのこれもカッコイイ人で、琳をじっと見る。

「京香の相方になったひとでしょ? どうぞよろしくね。ぼく、京香の夫のジョイスです」

 言われて頭を下げて、琳はにこりと笑った佐々木を見る。

「相方って言い方おかしいわよ、ジョイス。可愛いでしょ?」

「うん、カワイイ。カワイイけど、色っぽいね」

 そう言い捨てて周りに酒をついで回るジョイスを見る。

「エロいだってさ」

 桐嶋が笑いながら言って、その隣で篠原が苦笑する。

「確かに、なんか艶があると思うけど、エロいとは言ってないわよ、藍獅」

 たしなめる宮川も苦笑した。

「神田さんは人事部でも抜けられると困る人だったけどね。まぁ、エロいは言い得て妙かも」

 フォローしてくれるのかと思ったら、元上司の若木は琳を見て笑いながら言った。

「とにかく、主役がそろったから、乾杯しようか?」

 苦笑をかみ殺して、篠原がそう言ってグラスを上にやった。

「神田さん、これからどうぞよろしく。春海、退社しても桜井さんと仲良く。じゃあ、乾杯」

 桜井さんと仲良く、と言った言葉に引っかかりを覚えて春海を見ると、ばつの悪そうな顔をしていた。

 そうして、またクラッカーを鳴らしたのは桐嶋と篠原で。

「ちょっと、二人とも! 私にもかかるじゃない」

 クラッカーの中身が琳の顔に降ってきた。それを取って、思わず笑ってしまう。

「いいだろ、宮川。楽しいだろ?」

 そう言ってにこりと笑う桐嶋と目が合って。

 笑顔を返すと、桐嶋はグラスのワインを飲んだ。それにつられて琳もグラスの中のワインを飲んで。

 とても美味しくてそれを口に出すと、でしょう? と宮川が言って、琳のグラスに自分のグラスを近づけて鳴らす。

 歓迎会なんて、と思っていた。

 けれど、こんなに楽しい歓迎会なんて初めてで、琳は先ほどの辛い思いなんてすっかり忘れていた。

 そして、桐嶋に心の中で感謝をする。

 彼の前でかばってくれたことと、そして楽しいこの場に連れて来てくれたことを。

【2013/10/13 09:27】 | Lipstick on someone's collar | トラックバック(0) | コメント(4)

Lipstick on someone's collar:1

「桐嶋部長、異動だそうです」

「は?」

「ですから、異動です、桐嶋部長」

 やや肉感的な唇がにこりと笑って、淡々と言った。

 それを聞いて、情報処理部門部長の桐嶋藍獅は、口の端だけで笑ってみせる。

「時期じゃないな、誰が人事異動したんだよ? 抜けられたら困る部下だっているのに」

「ふざけてます? 部長の、ですよ」

 サインを書くために走らせていたペンの手を止めて、まだ笑ったままの表情を見た。

「……今度はどこだよ? 言っとくけど、本社は却下だぞ、佐々木」

 秘書課の佐々木京香は、入社時から秘書課勤務の美人。結婚しているが、まだ子供はいないためか、三十過ぎても若々しかった。

「篠原さんが帰って来られます。末永くよろしく藍獅、だそうですよ」

 新たな書類を出しながら、そう言って笑顔を浮かべた。

「壱哉が帰ってくる、か。時期じゃないな、これも。……で? 俺は今度はどこに異動? 壱哉の代わりに本社はごめんだからな」

 書きかけのサインを書き終えて、藍獅は書類をトン、と揃えた。それを佐々木に渡すと、当たり前のように手を出して受け取った。

「末永く、と篠原さんが言ったとおり、日本支社のままですよ。いつかはまた、他の支社へ、ということもあるかも知れませんけど。先ほど、人事部の神田さんから仮の辞令を受け取りました。どうぞ」

 人事部の神田、と言われてもピンと来ないが、仮の辞令、というのを受取って、それを見て。

 眉をしかめたのはしょうがないことだった。

「なんだこれ?」

「篠原さん直々だそうです」

「なんで壱哉が直々にこんなことするんだ? 支社長にでもなったのか?」

「その通りです。本社からの辞令で、支社長に抜擢され、戻ってこられる、と」

 佐々木を見ると、嘘か本当か分からないような笑みを浮かべている。というか、いつも藍獅の前ではこんな表情ばかりで、正直ため息が出る。

「お前、俺のこと嫌いだから悪戯してないだろうな?」

「人聞き悪いですね。私は桐嶋部長に悪戯なんてしたことありませんが」

 ため息をつきながらそう言うが、そうとしか思えない内容に、こちらもため息が出る。

「書類チェックとサインと、辞令の返事を篠原支社長によろしくお願いします」

「電話でいいのか?」

「篠原さんはこちらへ帰ってくるので、残務処理で忙しいみたいです。書面で返事を、とのことでした。で、その書類はこちらです。神田さん、待ってますよ」

 書類を机に置かれて、また書類か、と思う。

 部長になって四年。本当につまらないポストに就いたと思う。毎日書類にサインと判を押して、そして会議と、部下の管理。もう辞めてやろうか、と思っていたのにこれでは辞められないじゃないか、と心の中で愚痴る。

「人事部が待っているなんて。俺が拒否するとか、そういうの思わないのか?」

「篠原さんが、拒否するのであれば、直接交渉をする、と人事に言ったそうです」

「強引だな、あいつ」

「それだけ、頼りにされてます」

 光る唇が弧を描いているのを見て、煽てが上手いな、と思う。

「秘書は大変だな。上司を褒めて讃えなくちゃならないなんて」

 口ではそう言いながらも、さっさと承諾の返事を書いて、佐々木に渡す。

「誉め讃えているわけではないですよ。桐嶋さんは事実、篠原さんの隣にいて遜色ないと思いますから」

「はいはい。どうもありがとう、佐々木。人事部、待ってるんだろ?」

 頷いて、受け取った書類を見て、そしてこちらを見た。

「相変わらず、癖の強い字で」

「右上がりと言いたいんだろ? 読めると思うが」

 そう言って、立ち上がって、少し伸びをした。書類整理でさすがに疲れて、そろそろニコチンも尽きてきた。そして、どんな人事部の社員が来ているか、と思い、スイッチを押して窓のスクリーンをオフにした。プライバシーのためか、スイッチ一つで窓がすべて黒になる特殊なガラスを使用している。これはこれで気に入っているが、初め見た時はさすがに驚いたものだった。

 そうして待っていると言う人事部の神田を見て、思考が声で漏れた。

「……エロい女」

「……どこがです?」

 佐々木から答えられて、自分の考えを口にしていることに気付く。そうして気を取り直して、藍獅は指をさした。

「足首からストッキングが伝線してる。それに前スリットのタイトスカートに、きっちりと着たジャケット、まとめ上げた髪の毛。おまけに眼鏡」

「それのどこがエロいんですか? 神田さんはいたって真面目な社員ですが」

「男の目から見たら、エロいんだよ。性格も真面目だなんて、余計に、だな」

「……桐嶋さん、彼女をそういう目で見ないでください。本当に真面目で丁寧で、貴重な人材なんです。秘書課に欲しいくらいですよ。おまけに謙虚で、可愛いし」

 確かに可愛い顔立ちをしていた。やや童顔で、だからこそ眼鏡がどこか浮いているような気がする。それに、胸も腰もあるが、線が細いところがまた、男心を惹いた。

「彼女に言いますよ?」

「どうぞ。俺の性格はこうだって、あいつも知ってるから」

 付き合って長い恋人がいるのは、佐々木はよく知っている。社内恋愛なんて珍しいことじゃないし、いたって健全な付き合いだと思っている。

 ただ、結婚とかそういうものを考えられない人だったが。

「失礼しますね、桐嶋さん。午後の会議、遅刻しないで下さいね」

 わかった、と言ってスクリーンをオンにした。

 佐々木はにこりと笑って、そうそう、と言った。

「彼女の日高さん、中国支社へ異動だそうですよ」

 秘書課というのは最新の情報が得られる場所でもあった。他の社はどうかわからないが、この会社ではそうだった。佐々木の口から異動の話を聞いて、そうか、と答えるのみ。

「通達はまだ三日ほど先ですが、一応お耳に、と思いました」

「余計な情報だな」

「そうかもしれませんが、さすがに同期ですから。何となく結末は、分かっていますけどね」

 藍獅は今度こそ失礼します、と言って出て行く佐々木を見送ってから、椅子に座る。

「異動、か」

 呟いて、そして眉間に皺が寄る。いったい何年付き合ったか、と数えて確実に五年は経っているな、と思った。その間、結婚しようと思ったことも、それを口にしたこともある。けれど、彼女がそれをもう少し待って、と先に延ばした。いろいろな仕事にかかわるうちに、仕事が楽しくなったらしい。そして主任というポストに就いて一年足らず。そろそろ異動の話も出るか、と思っていたらその矢先だった。

 彼女を待っている間に、結婚はないだろうと思ったのは早かった。きっと彼女もそうだろう、と藍獅は思う。

「話するだろうな」

 自分の周りが目まぐるしく変化をしようとする中で、すぐに考えがまとめられないのはしょうがないことだった。

 そして目頭を揉んで、コンタクトのズレが生じてしまう。

「痛えな」

 藍獅は目から一度それを外して、引き出しから洗浄液を取り出す。

 クリアでない視界と一緒で、いつもは感の働く藍獅も、先はまだ見えていなかった。

 

 

 いつか話しを持ちだすだろうな、と思っていたが、予想に反することなく、それは遅かった。話を持ち出すのはきっと彼女の方からだろうが、性格上、考えに考えて話をするだろうと思ったからだ。

 けれど、話そうとしないのも彼女らしくて、藍獅はそれを促すために口を開いた。

「話があるんだろう?」

「……分かってるくせに、藍獅は何も言わないから」

 笑ったその顔はいつもの顔だったが、やや陰りがある。それを見て、一口ワインを飲んでから口を開いた。

「中国支社は最近伸び盛りだから、優秀な人材が欲しいんだろ。その点では、良美は合格だ」

 実際、仕事ができる女はいる。同期の宮川は特にそうで、藍獅の彼女の日高良美はそれに敵わない。が、それなりに努力をするタイプだから、今のポストに就いているのだろうと思う。

「優秀なのはあなたたちでしょう? 若木さん、宮川さん、篠原さん、そして藍獅。みんな経済学修士取得済みで、日本支社からは動かせないって言われてた。篠原さんとあなたもそうだけど、他の支社へ移動しても、結局呼び戻されて」

 若木と宮川、そして壱哉は会社の方針でアメリカに留学してから、経済学修士を取得していた。藍獅は大学から留学していて、二十二の頃はすでに経済学修士を取得していた。入社した時期は一緒だが、藍獅はスタートが他の優れた三人より早かった。が、結果は優秀で頭もよく、そして人目を惹きつけるような同期、篠原壱哉は藍獅の上を行った。

 それにホッとしたのは藍獅の方で、面倒はごめん、という性格だから上へ行くのは本当に嫌だった。けれど、結果的に勤続年数も長くなり、任される仕事を正確に着実にこなして行く中で、評価されて部長までになったのは、あまり望まないことだった。

「副支社長に、なるんだって?」

「……まぁね。壱哉から任命されたから、受けたよ」

「凄いのね、藍獅。でも、それが当たり前のように思えるから、本当にすごい」

 声に出してそう言って、何を思っているのか大体分かる。こういう所が、面倒だと思っていた。好きなのだが、その負けず嫌いすぎる性格は玉に瑕で。

「それで、どうする? 良美」

 藍獅が言うと、良美はこちらを見る。

「どうするって、どうすればいい? 別れるしかないでしょ? 結婚なんてする気がないくせに」

「それはこっちの台詞だ。キャリアなるから、行きたいだろう? 中国支社」

 藍獅が強く言うと、良美は押し黙った。そして、しばらくして、ええ、と口に出す。

「行きたいと思う。私は、そう、結婚なんて考えてなかった。……でも、好きだったから付き合ってた。これは本当」

「ありがとう、俺も好きだったよ、良美」

 藍獅が過去形で言うと、良美は息を吸った。

 キャリアが大事、それはよく分かっている。初めから上昇志向の強い人だから藍獅も惹かれた。

「遠距離なんかあり得ないから」

「奇遇だな。俺もそう思う」

 藍獅がワインを飲みほしてグラスを置くと、唇を引き結んだ良美がこちらを見た。

「部屋を取ってるの。最後に、しない?」

 言われて間髪をいれずに、藍獅は答えた。

「やめておく。そういうこと、別れ話したあとしない方がいいだろう?」

 それに頷く細い首に、何度顔を埋めただろう、と思う。

「わかった」

「支払はしておく。気をつけて行ってこい。それと、元気で」

 藍獅はナプキンを置いて立ち上がる。

 藍獅は後ろを振り向かずに、食事の支払いをカードで済ませて、その場を後にする。

 どこか軽くなったような肩を感じて、首を捻る。

 別れるということはここまで力を使うのだ、と思った。これだけ力を使うのだから、同期の支社長になった壱哉は、と思いながら、顔を思い出す。

「どうなるかな、これから」

 気持ち的にはたいしてやる気は起きていない。

 けれど、同期の篠原壱哉には応えなければ、とは思う。

 ため息をつきながら近くにあったタクシーに乗り込んで、藍獅は疲れた目を瞑った。

 

 

 副支社長になると、周りの目線も変わっていった。たまについていた秘書が、年中つくようになってそれだけで息が詰まった。メインの秘書は主任の佐々木京香で、さすがに秘書課に長いだけあって、仕事ができた。二日か三日に一回、秘書の人員は変わるけれど、自分を管理されているようで何となく嫌だった。

 支社長として帰ってきた篠原壱哉も同じようなことを言っていたが、彼自体がしょうがない、と受け入れているため、そこは何も言わない。なにより、融通がきいて頭の柔らかい、秘書課課長の春海空がついているからだ。

 けれど、それも役職のせいか、と思いながら我慢していた。佐々木も融通が利くので、わりと好きにさせてもらっているし、しょうがないか、と思う。

 人事権を与えられたという壱哉は、人事には本当に気を使っていた。そういう時に、いきなり結婚式をすることになり、そして結婚式を挙げて。その壱哉の新たな妻になった女性はセンシュアルで、綺麗可愛い細い女性。雰囲気があって、色白だった。壱哉がおよそ付き合ったことのないような女性だったが、それでも二人はとても似合っていて、むしろ前の妻よりも藍獅にとって好ましい人だった。

 そんなときに、今まで頼りになっていた社員が、どうしても辞めなければならないことになった。しょうがないことだが、藍獅もそれは頭が痛いことだった。

「人事の件で相談があるんだ」

 案の定相談されたその内容は、分かってはいるが一応聞いた。

「なんだ?」

「春海が今会計年度で退職するんだ」

「……ああ、そっか。社会科見学は終わり、ってこと?」

 春海は総理大臣の息子で、周りの反対を押し切って会社勤めをしていた。本来なら、議員秘書などになって今頃は議員になっていてもおかしくない年齢。

「今、入院してんだろ?」

「そう。何のストレスか、胃潰瘍でね。働かせすぎたかな?」

「まさか。あれの原因は桜井だろ?」

 藍獅が言うと壱哉が笑って藍獅を見る。

 春海は平静を装っていたが、会計年度の初め辺りに異動してきた桜井朱里に、好意を持っていた。最初は喧嘩ばかりしていたような感じを受けるのに、どうしてかそうなった。

「当たらずとも遠からず、かな。まぁ、どうであれ、決めていることがあるんだ。提案していい?」

 藍獅が頷くと、壱哉は淡々と言った。

「今は兼任させているけど、佐々木を課長にする。秘書課で十年以上働いているし、それが妥当だと思う」

「主任は? まぁ、あそこは別にいなくてもいいだろうが、人員が減ると上の役職がうるさいだろ? 管理してもらってるしな」

 部長クラスは、支社長、副支社長のように常時秘書がついているわけではない。が、スケジュールや、その他イベントや情報などは、秘書課の人間がかかわって管理している。

「とりあえず、しばらくは様子を見るけど、一人だけ気になる人がいて。その人を推そうかと思ってる」

「主任に?」

「そう。今の秘書課の人員で考えられる人はいないから、別の部署から移動させようかと」

 壱哉が気になる人、というくらいだからきっと仕事ができるんだろう、と思う。黙って頷いて、その先を促すように、それで、と言った。

「今の主任クラスを動かすと、後が大変そうだから、平社員を昇格させる」

「どこの誰だ?」

「人事部の神田琳。本当は男を入れたかったけど、その人以外、いなくてね」

 神田、という名前に聞き覚えがあるような気がしたが、藍獅はそれをスルーした。

「どんな人か知らないが、いいんだろ、その人」

「真面目で丁寧な仕事をする。僕の時も担当でね。住む場所とかいろいろ世話になったんだ。人事部部長の若木も神田さんなら、と推してくれている」

「偉智依がそう言うなら、心配ないだろう。壱哉も、その人がいいんだろう?」

 壱哉が頷いて藍獅を見る。

「藍獅もきっと気に入る」

 にこりと笑ったその顔を見て、何も思わないわけじゃなかった。

 しかし、その笑顔の真意を測りかねて、藍獅は微妙に笑顔を浮かべた。

「壱哉、何か……いや、いい」

 意外と策士な面がある壱哉で、表情を見る限りでは何か策を弄しているように思えた。

「藍獅、今君に辞められちゃ困る」

「辞めるなんて言ってないだろ?」

 そうかな、と言って笑う壱哉を見て、見抜いているな、と思った。副支社長の椅子は意外と面倒で、窮屈だった。いつもため息ばかりついている藍獅を、見ていたのだろう。

 そうして藍獅も笑って応えた。

 今回ばかりは、自慢の感もあまり働かなかった。

 それはしょうがないことだが、後にちょっとした痛い目を見ることになるとは思わない。

 

 

 用事があって、支社長室に行った。ちょっとしたことだったが相談したいと思って、インターホンを鳴らして、入っていいと言ったから入った。

「いいよ。ちょうど、紹介したい人がいる」

 そうして中に入ると、知らない女が一人立っていた。

 黒いフレアのシャツワンピース、同じ黒のたいしてヒールの高くないパンプス。黒い髪の毛は綺麗にまとめ上げられて、花の形をした大きなバレッタが目を惹く。

「神田琳さん。今度秘書課に異動して、主任になる人」

 壱哉がにこりと笑ってそう言った。言われて、こちらへ向き直る女の、その大きな目は真面目な銀縁の眼鏡が覆っている。頭を下げるその仕草は、完璧だった。

 神田という名前に覚えがあるのは、当たり前だった。

 藍獅の異動を伝えにきた、人事部の社員。

「なんか、エロいよな。こんな人が秘書だなんて」

 初めて見た時も、黒のスーツを着ていて、きっちりとまとめ上げた髪型をしていた。そして同じような黒のパンプスの踵から、ストッキングが伝線していて、それがやけに目を惹いた。

「それは言い得て妙だけど、失礼だ」

 苦笑顔で言う壱哉に、藍獅も笑う。そして、続けて口を開く。

「綺麗にまとめた髪の毛に、カッチリとしたスーツ。大きめな目に、真面目そうな眼鏡なんて。なぁ、壱哉?」

 こういう言い方をしたら、どんな顔をするのか、と思った。この真面目そうで、エロい女は。

「だから、失礼だ、藍獅」

 さらに笑う壱哉は藍獅をたしなめる。

「が、外見は関係ありません! それに、いきなり秘書課へ異動になったのに、そんなこと言われるなんて心外です。私は、いたって真面目ですので」

 藍獅の言うことに反論するように言って、目を瞬かせる。

 その仕草がどうにも面白くて、可愛いと思った。本当に真面目なのだろう、と思いながらからかうのはこれくらいに、と思う。

「副支社長の桐嶋藍獅です。これから世話になることも多いでしょうが、どうぞよろしく」

 藍獅が手を差し出すと、ゆっくりとその小さな手が藍獅の手を握る。軽く振って、そして手を離そうとすると、その相手がためらいがちに声を出した。

「こちらこそよろしくお願いします。神田琳です。一緒に働けて光栄です」

 緊張した声を聞いて、その手を離すと、琳は少しだけ顔を下へ向けた。

「あの、一度戻らないと。仕事が詰まってますので、失礼してもよろしいでしょうか?」

 壱哉がいいよ、と言うと琳はまた完璧に頭を下げて、支社長室を出て行く。

 その綺麗な細い脚を普通にじっと見てしまう。

「どうだった? 藍獅」

「いいんじゃないか? 新しい主任なんだろ?」

「気に入った?」

 その言い方を聞いて、どこか引っかかりを覚える。

「藍獅、ああいう人、好きだろう?」

「……は?」

 藍獅は瞬きをして、壱哉を見て首を傾げた。

「だから、好みだろ? 日高さんみたいな外見が真面目なタイプよりも、本当に真面目で勤勉な人。細いけど胸も腰もある身体が好きだよな、昔から」

 まるで女を宛がうような言い方だった。

 壱哉にしては珍しいことだ。

「……なんだよ。何が言いたい?」

「神田さん、藍獅の担当にした。副支社長の椅子は窮屈だろうけど、これからは神田さんが君を管理するから、多少我慢して欲しい。僕は君を頼りにしているから」

 そうしてにこりと笑って、藍獅の肩を軽く叩いた。

「言ってる意味分かるよな? 辞めないでくれ、藍獅。神田さんをつけたことに免じて」

「……色気で落とす気か?」

「彼女は出来るよ。色気は副作用と思ってくれるとありがたいね」

 藍獅は最大のため息をはいて、壱哉を見る。

「性格悪いよな、お前。……そんなことしなくても辞めないさ」

「そうかな? 藍獅は王様気質だから、簡単に辞めそうだと思ったんだが。とりあえず、神田さんをつける。もし不満があったら、支社長の僕に言ってくれるかな?」

 そこまで言われて辞めるとかそういう言葉を言えるわけがない。

 というか、辞める気はあったが、支社長にここまで言わせて、そういうことをするわけにはいかない。

「わかった」

「ありがとう」

 壱哉がにこりと笑って、藍獅を見て。

 嵌められたな、と思った。

 壱哉と藍獅は似ている部分があって、だから互いのことも分かっているような、戦友みたいなもの。

 だから本当に好きなタイプの女とか、そういうのが互いによく分かっていた。

 壱哉が今の妻のことを選んで、本当に好きで結婚したのも、藍獅にはよく分かる。

 神田琳は、藍獅の中でそそる女の部類に入っていて、かなりのストライク。

 藍獅は壱哉の隣で頭を抱えた。

 辞める理由はいくつかあったのだが、好みの女が近くにいるのも悪くない、と思い始めているから。

【2013/10/13 09:23】 | Lipstick on someone's collar | トラックバック(0) | コメント(2)

Uniform:14

 父はかなりムッとした。母ももちろん、呆れたため息をついた。

「私の事だから。もう、成人しているし、私が決めたい」

「花娃、本当に言っているのか?」

 父がため息交じりにそう言った。

 サッサと結婚して、家庭に入れば、何も問題ないと思っていた。大学へは行ったけれど、何も得るものはなく、ただ行っただけのようなそれは、ずっと何をしているんだろう、と思った。だから、もうこれは結婚しかないかもしれない。逃げることになるかもしれないけど、これが良いのだろう、そう思っていた。

 けれど、ある人と会って、そして自分の人生が変わった。自分でも勝手をしているだろうとは思う。経済援助を打ち切られても当たり前だったかもしれない、と今は思う。けれど、一度見た自分の将来のビジョンを、諦めるなと何度も言われて、立ち上がったと思う。

「私は、今の努力を続けたい。……そして、篠宮さんと生きて行きたい」

 馬鹿なことを、と思う。もうすぐ二十三歳。院生として学校に通う身で、四つ年上の彼と結婚してどうなるのか、と思う。だけど、初めて会った時から、篠宮理人は光ある人だった。自分とは何て違うのだろう、と思うくらいだった。そんな人が花娃を好きになってくれた。いつも信じていると言い続けてくれる。

 両親よりも花娃を信じている、と思う。優秀で、そして周りからの信頼も厚い彼なら、花娃も生きる道を預けては良いのでは、と思わせる。

 父はさらにため息をついた。母は父の顔を見る。

「好きにしなさい。確かに成人しているし、自分の人生を決めることはある程度できるだろう。聖アンティエの創始者の息子という点では心配などしない。ある程度は賛成できるが、出来ない部分もあることは承知しなさい。花娃も、篠宮さんも」

 そう言って立ち上がって、父は花娃を見た。

「花嫁姿は見せてくれるのか?」

 父の言うことに花娃は首を振った。本当に親不幸で、馬鹿な娘だと思う。どうして首を振ったのだろう、とも思った。それくらい別にいいではないか、と。

「私、きちんと達成できたら、きちんと式を上げると思う」

 それについて、やや怒ったような顔を向ける。母は花娃からあからさまに目を反らした。

 自分勝手な娘、花娃が思うよりも、両親がきっとそう思っている。

 両親が立ち上がって、失礼します、と篠宮家の客室を出た時、花娃は立ち上がりもしなかった。理人が立ち上がって、見送りに立ったのを見て、苦しいため息をついた。

「あなたのご両親は厳しい方のようだね。でも、意外とすんなり了承してくれた。全ては許せないと言っても、それでも許す部分があるということは、君の事を思っているからだと、私は思うよ」

 理人の父理臣がそう言って花娃を見る。花娃は少しだけ微笑んで理臣を見た。

「私は嫌いだわ。花娃の事をもっと理解しているのなら、言葉ももう少し優しいでしょうに」

 相良がそう言って腕を組んで、背をソファーに乱暴に預ける。

「不器用な親なのだよ、野絵留。本来なら娘の花嫁姿を見せて欲しいところも、彼らは我慢したのだから。でも、本当に達成するまで式は上げないつもりかな? 理人との結婚も先延ばし?」

 にこりと笑った理臣に、花娃はまた微笑んで、顔を俯けた。

「父さん、それは二人で話し合うから」

 客室へ戻ってきた理人がそう言って、花娃を見る。

「そうだよね、花娃さん?」

 にこりと笑った理人に、花娃は頷いて見せた。

 

 

 籍は入れてくれるの? と聞かれて頷いた。籍を入れるということは、結婚と一緒。婚姻届を出すということ。それに頷いたけれど、本当に良いのか、と花娃は思った。

 思ったけれど、今この時の気持ちを逃すのも、どこか間違いのような気がした。

 どうして花娃がいいのか、どうして花娃が欲しいのか。そのたびに応えてくれる理人。自分が出来ないかもしれないと思っていることを、いつも信じていると言う理人。

 どうして本当にそこまで言ってくれるのか、どうして花娃を信じてくれるのか。信じていれば望みはきっと叶う、と理人は語って、花娃の唇にキスをした。

「信じきれなくなったら、そのたびに信じてると言い続ける。夫婦は運命共同体だから、どちらか一方でもその信じ切れる強さがあったら、望みはきっと叶うよ」

 僕にはその強さがあるから、と理人は笑みを向ける。

 綺麗な形の目に眼鏡というレンズを着けてもその青さは綺麗だった。澄んでいるようだった。どうやったら理人のような人になれるのか、と思う。冷静で前向きで、きっとこの人は動じたことなどないのではないか、と思う。花娃と初めて会った時も、躊躇もなにもなく自分の考えを口にした。そして、花娃を立ち上がらせた。

 こんな人が、本当に自分のパートナーになるのだと思うと、気が引ける。

「気が引けます。篠宮さんと私だったら、レベルが違う気がする」

「レベルって? 一緒だと思うよ?」

 どこが、と思うと理人は笑みを向けた。

「きちんと努力をする、前向きな姿勢。もし君がそんな人じゃなかったら、僕はきっと出会わなかったし、素通りする他人だった。人は引き合うんだよ花娃さん」

 引力ってあるから、と言う理人に、本当にこの人は前向きだ、と思う。

 きっと大丈夫、と思った。花娃の心も理人の事を求めているし、何より理人が花娃を求めてくれる。そして勇気づけてくれて、花娃を見てくれる。

 用意周到な婚姻届は、父の正臣が用意したのだと言った。本当なのか、と問いただしたら、もちろん、と肩を竦めた。目の前に置かれたボールペン。篠宮理人という文字。

 これを書いて判を押して、役所に出せば、花娃は理人の妻になる。

 本当に良いのか、とまた不安になる。けれど、一つ深呼吸をしてペンを取った。

 そうして名前を書いて、判を押した。ドキドキして苦しいくらいの緊張。これで自分の人生が決められたようなものだ、と思いながら理人を見ると、身体をいきなり持ち上げられた。

「わぁっ!」

 我ながら可愛くない声。だってそのくらい驚いた。持ち上げられて身体をそのまま回転させられる。そうして驚いたまま、抱きしめられて。

「君は僕のものだ」

 嬉しそうな声でそう言うのを聞いて、花娃は抱きしめるそれに苦しさを覚えた。

 こんなに嬉しい声で、あの理人が言うのなら、と。

 花娃は、胸の中に詰まる何かに苦しさを覚えながら、理人の背に手を回した。

 

 

 その日のうちに役所に婚姻届を提出をしたのは理人の父だった。これでまとまらなかったら困るから、とさっさと出しに行った。理人はそれに対してありがとう、と口にしただけで、すぐに花娃を部屋へ連れて行って、息もつかせないほどのキスをした。その後はもちろん体中を触られて、キスをされて、久しぶりに理人を受け入れて。

 翌日、かなり体力がそがれていたけれど、学校に用事があるので、制服を着て聖アンティエへ向かった。もちろん、理人の家から。理人は花娃が出て行く時、まだベッドにいたのに、花娃が用事を済ませると、聖アンティエの制服を着て、大学院にいた。

 久しぶりに見た理人の制服姿。もう少しで、制服は着なくなる、という。きっちり着た制服は、昨日の事など何も思い出させないほどだった。それくらいストイックに、ネクタイもボタンも締めている。

 眼鏡の奥の青い目がにこりと笑って、花娃を見る。

「用事は終わり?」

「……終わりましたよ。篠宮さんは? 学校に用事?」

「君に用事。学校に行く時、生徒は制服を着用だからね。君が帰ってきたら、意味がない」

「なんですか? それ」

 花娃が笑ってそう言うと、一緒に来て、と言った。学生は講義中。誰も廊下になんかいなくて、理人と二人で歩く。理人の後ろをついて行くと、聖堂の中に入った。誰もいない、と言って花娃を見て笑顔を浮かべる。

 そうして、祭壇の前に行って、向かい合って立つように言われた。まるで、結婚式のようだと思いながら花娃は言った。

「結婚式みたいですね」

「成功するまで結婚式はしないんでしょ?」

「そうですよ」

「だから、誓いを立てて欲しいと思って。僕と、神に」

 理人の手の上にはロザリオがあって、その手と同じ方の手を取られて、ロザリオを二人で握るようにさせられた。

「先に、神に誓う。病める時も健やかなる時も、田村花娃を愛し、敬い、永遠の愛を誓う。君を励まし、君を信じ、ともに人生を歩いて行くことを、田村花娃へ誓う」

 祭壇の前、大きなキリストの十字架の前でそう言われて、花娃は息を詰めた。昨日よりドキドキしている。

「君も誓ってくれる? 花娃さん」

 同じように、と言ったので、花娃も理人の言葉を思い出しながら、言った。

「神様に、誓います。病める時もすこや泣かる時も、篠宮理人を、愛し……敬い、永遠の愛を誓います。……一緒に人生を歩いて行くことを、誓います。不安は残りますが、篠宮理人さんを信じてます」

 不安は残る? と理人は言って苦笑した。

「その不安を失くすことを、田村花娃さんに誓います」

 理人は笑って花娃の頬をその手で包んだ。そうして、制服のポケットから、銀色に光るものを取り出した。

「指輪?」

「悪いけど、適当に買ったから、入るかどうか……ちょうど良かったみたいだ」

 ピッタリはまったそれをみて、ああ、結婚したのか、と少しだけ実感した。書類上の事、しかも式も挙げないそれに、実感は持てなかったけれど。

「僕にもしてくれる?」

 もう一つの指輪を取り出して花娃に手渡した。花娃は、理人の薬指にそれを通して、その様子を見る。理人の指は綺麗ですっとしている。爪の形も綺麗だから、指輪が良く似合う。花娃は少し男爪のような形をしているので、この指が少しだけ羨ましい。

「またイギリスにもどるね」

「そう、ですね」

「また遠距離」

「そう……ですね」

「イギリスに、君に会いに行くのも、これで正当な理由になる」

 結婚をしたからね、と花娃の左手を取って指輪を見た。

「これから、一緒に生きて行くけど、覚悟はよろしいですか?」

「な、なんの、ですか?」

 理人は花娃を見てにこりと笑った。

「君一人しか愛さないし、君一人しか抱かないし、離婚は絶対にしない。だからどうか、僕の情熱を受け止める覚悟を」

 そうして、もちろん、と続けた。

「君の努力を傍で見続ける。自分を信じて、一生努力を惜しまないで。僕も同じだけの努力をして行くから」

 ステンドグラスの光が理人に差して、本当に光を受けているようだった。

「僕の光あれ」

 肩を引き寄せられて、理人が花娃にキスをした。優しいキスは、何度も振ってきて、その合間に好きだ、愛してる、と言われた。

 こんなに言われては、花娃は理人の傍にいるしかない、と思った。

 愛して行くしかない、と。そして努力していかなければならない、と。

 これからどうなるか分からないそれに、花娃は光を見た気がした。

 理人と言う、光あれ、の意味を持った名の、その人から。

 

 

 結婚を明かしたのは、結婚してから二年後の事。その数年後の花娃の達成を一番喜んだのは、夫の理人。

 もちろん結婚後、二人は互いに努力をしながら、喧嘩もしながら、自分の目標へ進み、そして長い人生をともに歩いた。

 制服を着て、神に誓ったあの日から、ずっと。

 

Fin

【2013/10/05 08:45】 | Uniform | トラックバック(0) | コメント(2)

Uniform:13

 好きだ、と結婚すると言った。言わされたような感じもするが、心の中でどこか納得したようなことだった。半年以上たって会いに来てくれた時、思い返せば嬉しかった。やっとスキップを果たしたとはいえ、心の中にちょっとした悩みもあったから。スキップしたとはいえ、本当にこれでいいのか、これで本当に自分の思う未来に近づいているのか。

 帰ると言った彼を引き止めてそして抱き合って。その悩みを忘れることが出来た。心地よい体温に癒されたと思う。ああ、この人が好きだ、と。けれど次の日に見たゴシップに、自分でも理解できないくらい動揺して。そしてきっと嫉妬しただろう。

 ゴシップを挟んで、次の日に会った時、熱い言葉で口説かれた。努力する姿が綺麗だ、と言われて、それが心に響いた。けれど、認めたらどうなるのか。好きなことを口にしたらどうするのか。自分が怖くて抵抗したけれど、あっさりとその日のうちに、結婚する、好きだ、と言ってしまった。

 言ってしまった翌日、腕に包みこんで離してくれなかった。講義はない日だったので、食事の時もずっとベッド。外国の映画のような、そんなシュチュエーションに自分が置かれるなんて思わなくて。ずっと、ただ何度も抱き合って、初めて異性と入浴した恥ずかしさ。こっちは初めて経験したというのに、彼は本当に慣れた風に、入浴中も余裕で身体に触れてきた。勉強もこれからの事も考えない時。そんな時は半年以上なかった。力を抜け、と言われているように、優しく強く抱かれて睡んで。起きると決まって、目の前の青い目が笑って、優しいキスをした。

 彼が帰る時、空港まで見送った。一度日本へ帰ってきて、両親に会いに行くことを約束して。

『逃げないでね、花娃さん。フライトのチケット送るから』

 そんなことをしなくてもいい、と言ったら彼は首を振った。

 そうして花娃のもとに一通の手紙と、フライトチケット。日付まで指定されたそれに、半ば強引な感じもする。けれど、きっとこうしなければ花娃は日本へ帰らなかった。それは自分でもわかる。いつも揺れる心で、自分でも不安定だと思うから。恋をする暇があるのか、結婚なんてしていいのか。今まで積み上げた努力はどうするのか。彼と一緒になって、勉強をする暇があるのか、彼に学費などで迷惑をかけることになりはしないか。

 悩みは様々で、その中で一番の悩みは両親だった。大学院へ行く時に反対した両親。けれどやっと花娃が本気の努力をしたから認められた。確かにわがままだったと思うし、適当にしていたと思う。そんな花娃だから両親に認めてもらうには、努力しかないと思った。そして努力をした後、今度は結婚する、と言ったら何と言うのか。

 だから両親に会うのが怖かった。何と言われるか分からないし、まだ学生の身の上。

 このままでいいのか、このままこうやって彼に流されてもいいのか。

 花娃の中でせめぎ合うのは、結婚と学生本分、そして勉強。

 年齢は若いのに、しっかりした目標と考えを持つ彼と、今の花娃とでは明らかにレベルが違うように思えた。だからこそ、花娃はどうして彼に恋をされたのか分からなかった。好きだという唇も、花娃を見る青い目も、全てにおいて完璧のように整っている人。

 もちろんその頭脳も、花娃はしっかり負けていた。

 そして、精神年齢もきっと、花娃よりはるかに先を行っている。多分、人生を預けても、大丈夫なのではないかと思うほどに。

 

 

 あと二日で春休みに入る。講義がない日も花娃は大学院へ向かった。そしてそこで勉強をする。次もスキップを果さないと、修士号が遠くなる。今はイギリスの学士を取得したばかり。あと一年で出来れば修士号まで取って帰りたいと思う。そうして、人文科学の博士号を日本で取りたかった。

 道のりは長いけど、あっという間かもしれない。二十代でどうにか、博士号を取りたいと思うのだ。

 けれど思いと心は別物のようで、いまいち集中できない。講義がない日も花娃は大学院へ通っているのに、勉強に集中できないのは、きっとこれから変わる環境のせいだろうと思う。花娃はため息をついてペンを置いた。そして、テキストも一度閉じて、ノートも閉じる。髪の毛を触ると、伸びたそれがうっとうしく感じた。

『髪が伸びたね。久しぶりに見た時、ずいぶん印象が違って少し驚いた』

 ベッドの中で、耳元でそう言われて髪の毛を梳く彼に、短い時の方が好きかと聞くと、首を振った。どちらも似合っていて、好きだ、と。

「ああ、もう」

 はぁっ、とため息を大きくついて、集中できない自分が嫌になる。この制服のせいだ、と勝手に制服のせいにしてしまうのは、この前これを脱がされたから。彼との情事が終わって散らばる制服を見た時、どこかその雰囲気にドキドキした。脱がされたその様子を思い出して、こんなことは今までなかった、と思う。初めてした時も、制服だったというのに、その時の印象は薄くなるほどだった。

「どうしたら忘れるんだろう。勉強できないよ」

 机に突っ伏して、何度もため息をつくと、人の気配を感じて顔を上げる。花娃が座る場所は学院の図書館でも少し遠い場所。あまり人も来ないような離れ小島のようなところだ。だからほとんどと言っていいほど、隣に誰かが座ることはなかった。珍しい、と思いながら顔を上げると、聡明そうな顔をした多分老人だった。髪の毛は白と茶色が混じっていて、けれどその顔立ちと雰囲気が合っていた。多分老人と称したのは、髪の毛の色がそうだったから。顔は若く見えて、けれど生粋のイギリス人というわけではないようで。

「こんにちは。お隣は空いていますか?」

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 その人は、にこりと笑って帽子をとった。帽子の影で分からなかったが、目がやや薄い青色をしている。見たことがある人だと思ったが、こんな人に会ったらきっと印象に残るに違いない、と花娃は思った。

「あなた、田村花娃さん?」

「……はい」

 何故名前を知っているのか、と思いながら首を傾げて多分老人であるだろう、その人を見る。

「初めまして。私は篠宮理臣、理人の父です」

 花娃は何度か瞬きをした。見たことがある、と思ったのは面差しだった。理人に少し似ているのだ、この人は。

 花娃は慌てて頭を下げた。自分は遅くに出来た子供だから、と言っていた。そして、こうも言ったのだ。

『父はもう老人の域で、七十七歳にもなるけど、若く見える』

 どんな人なのか、とベッドの中で聞いた時に教えてくれた。

「初めまして、田村、花娃、です」

 思わずしどろもどろになってしまったそれに理人の父、理臣は笑みを浮かべた。

「かしこまらなくて結構です。理人も、こうやって会っているのは知らないのでね。ずっと気になっていたんですよ。賢いあの子が選んだ人はどんな人だろう、って。身体のお友達だった鶏ガラさんとは違って、可愛くて豊かな子だ」

 はは、と笑った理臣は花娃の身体を上から下まで見た。そこで気付いたのは、スタイルの事だということ。花娃は思わず椅子を引いて、少し距離を置いた。

「鶏ガラ?」

「そう、理人の身体だけのお友達。いや、一応彼女だったかな……三年くらい付き合っていたけど、君と出会ってから別れてしまった。そう、多分、君と出会ってからだったと思いますよ。とても痩せている子でね、どこがいいのかと聞いたら優しくて良い子だと。でも、君みたいに家に連れてくることは一切なかったかな」

 また笑みを浮かべて少し声を出して笑って花娃を見る。

「結婚したいから、会って欲しい。……三年も付き合った鶏ガラさんは一度も家に連れて来なくて、その存在もどこか感じないくらいの付き合いだったのに、あなたとは頻回なメールと電話。神学科の交流にかこつけて、あなたに会いに来たでしょう? 私はアナベラ・オルシーニと会うように言っただけなのに。それもさっさと済ませて、挙句には理人の事を思っていた彼女を振る始末でした」

 アナベラ・オルシーニ。理人に抱きついて、そして泣いて帰った人。

 確かにきっぱり断った様な事を言っていた。

「私は、アナベラと結ばれることを望んでいました。彼女は敬虔なカトリック信者で、兄とその従兄はカトリックの司教です。華やかな職に就くこともあるけれど、真面目で貞潔な人でした。多少神を冒涜するようなリアリズムもあるが、息子は神学を極めたカトリック信者です。カトリックはカトリック同士で。そう望んでいました」

「……そう、ですか。それで、なんでしょう……私とは反対ということを言っているのでしょうか?」

 キリスト教徒はキリスト教徒同士で、というのは聞いたことがある。そうした方が幸せになれる、と。よく分からないな、と思うくらい、曖昧な根拠。

「いや別に。反対なんかしていませんよ。大切な息子が好きな女性と結婚するなら、私は喜んで祝福します。二度目の結婚で、遅くに出来た理人は本当に良い子で、優秀な子。アナベラも良い大学を出ている優秀な人でして。ボランティアにも積極的で、素晴らしい人だと思った。息子は理知的な人が好みだと思っていたから、大学院へ通う何も持っていないあなたへの情熱は、すぐに冷めると思ってました。けれど、違っていましたね」

 肩を竦めて笑う理臣を見て、どこをどう見ても理人と花娃の仲を良いようには思っていない様子だった。

「どう考えても、反対、と言っているようにしか聞こえません。……もし、反対なのなら、それでもいいですけど」

 理人の父が反対するなら、それでも良かった。そうしたら理人は花娃の事を諦めるだろうか、と思いながらそれはないかもしれない、と勝手に思う。自惚れのように思う自分もどこか嫌だが、本当にそう思うから。

 反対なら反対で、いっそ自分の気持ちにケリがつく。こうやって悩む自分とはさよならが出来る。そして、勉強の事だけを考えていれば、いいから。

「どうしてそれでもいい、と? 田村さん、あなたは理人を好きではなない?」

「私は、勉強をしにイギリスまで来ているんです。きっかけは篠宮さんだったけれど、それとこれは別です。私には極めたい学問と研究もあります。優秀な篠宮さんには届かないかもしれないけど、私は出来る限りの事はしたいですから。結婚する、と言ったことは認めますが、結婚によってそれが妨げられることも考えられるので、別に反対をするのなら、しなくてもいいです。相良教授のように、オールドミスを目指しますから」

 ここは図書館。なのに、理臣は少し大きな声で笑って見せた。きっと静かに、と言われるようなそんな声だった。

「ここが図書館じゃなかったら大笑いですよ、田村さん。いや、理人が言った通りだ。今、結婚しなかったらきっと彼女はオールドミス決定、と言っていたよ。それに、頑固で勉強ばかりしていて、理人の事なんか見ていない? 理人はやや直情的なところもあるから、無理やり振り向かせた、というのもあながち間違いじゃないかな?」

 無理やり振り向かせた。

 その言葉に花娃は顔が熱くなる。目を反らして、息を詰めて、ベッドから出なかった一日を思い出した。結婚するというまで身体を高められて。高められた身体が苦しくなるくらい、理人から苛まれるように抱かれた日。

「先程も言った通り、私は息子が幸せになるのなら、喜んで結婚しろ、と言いますから。遅くに出来た子供で、私は理人が成人するまで生きられるだろうか、といつも思っていた。でも、生きてきて、成人した息子を見ることが出来たのは、本当に幸運でした。なのに、今度は理人が結婚するという。その姿まで見れるなんて、感動することこの上なし。素晴らしい。本当に素晴らしい」

 いつだったか、相良野絵留が言っていた。理人の家系は情熱で出来ている。確かにそのようだ、と思いながら花娃は理臣を見た。

「ご両親が心配だとか。大丈夫です。今は私と、理人の姉の杏朱が表向きの経営者ですが、本当は理人が経営していると言っても過言ではない。学生結婚になるでしょうが、私がその辺は説得しても良い。理人の優秀さも、武器になる。あとはあなた次第ですね。……結婚する意志があるのなら、障害は一つしかない。まぁ、これも別に無視しても構わないが」

 花娃次第、と言われてさらに椅子を引く。ここまで言われて、うん、と言わないわけにはいかないような、そんな感じだった。理人の父、と言うだけあって、押しが強いような気がする。

「結婚、します? 理人と。ああ、もちろん、理人にここにきているのは内緒ですから、この場で話したことも内緒ですよ?」

 にこりと笑ったそれに、花娃は多分頷いた。そうしたら、身体を引き寄せられて、抱きしめられる。そうして背中をポンポンと叩いて、満面の笑顔を花娃に見せた。ああ、ハグか、と思ったのは腕を離されてからだった。

 なんかもう、逃げられないような、そんな感じになりつつあるのを感じて、花娃はこれからの事が頭をめぐった。パンクしそうなくらい。

「あなたが日本へ帰って来るのが楽しみです」

 そう言って立ち上がって行ってしまう。

 言いたいことだけ言われたようなそれに、花娃はまた大きなため息をつく。

「篠宮さんのお父さん、似てる」

 あと二日で春休み。理人は空港まで迎えに行くと言った。両親には、まだ理人の事は話していないけれど。

 もし、理人の父が花娃の実家まで来るのなら、と思った。

「早く話さないと……っていうか、なんか……」

 花娃はまだやるべきことがあるし、恋には力を入れられないけれど、と思いながらもそれに引きずられるような、そんな人生に変わってきている。それもきっと、理人に出会ったから。

 理人に出会ってなかったら、ここまで自分の人生は変わらなかった、と花娃は思う。

「電話、しなきゃ……」

 花娃はテキストをバッグに入れた。

 気は進まないが両親に電話をしないと、大変なことになりそうだ、となんとなく予感した。

 

 

 二日後、日本に帰って、久しぶりに日本の空気を吸った。

 別段変りはしないようだが、周りは日本語を話している。それにホッとした。

 理人は電話で、到着口で待っていると言った。そこへ向かって行く時、あの青い目を思い出して、そして花娃の名を呼ぶ声を思い出す。

 両親に電話をした時、かなり驚いて怒っていた。それは当たり前の反応で、花娃は電話だからさっさと切ったけれど。

『そっちに出て行くから、相手に言っておきなさい』

 場所は聖アンティエの門の前。そこで両親は、今日たぶん待っているはず。

 見慣れた長身が立っているのを見て、花娃は大きなスーツケースを引きずって、そこへ向かう。

 気付いた青い目が花娃を捉えた。

「篠宮さん、なんか、笑顔だけで……そんなに素敵なのに、何も持ってない私でいいわけ?」

 本当に普通の、何も持っていない花娃。

『息子は理知的な人が好みだと思っていたから、大学院へ通う何も持っていないあなたへの情熱は、すぐに冷めると思ってました』

 本当に普通だから、理人のような人が花娃に飽きないはずがない。

 おまけに、花娃は自分でも思うが、可愛くない性格をしているし。今は勉強優先。きっと、結婚しても理人には応えられないことが多いはずだ。身体の関係にしても、優しい言葉をかけられても、きっとそっけないと思う。

 理人に近づくにつれて、自分の恰好を省みたりして。髪の毛を整えたり。

 ああ、こんなバカなこと、今までやったことがないのに、と思いながら、理人に近付いて行く。

 周りはどう思うだろうか。理人が待っている相手である花娃をみて。

「久しぶり、花娃さん。会いたかった」

 花娃の右手はスーツケースに残したまま。左手はトートバッグを提げたまま。

 理人は花娃の身体を抱きしめた。

 周りはどう思うだろう、そう思ってその胸を押し退けたいけど、両手はあいにくふさがったままだった。

 長い両手が花娃を解放して、そして花娃の右手からスーツケースを優しく奪う。

 にこりと笑った青い目。

「篠宮さん、どうして私と結婚したいの? もっと美人で、素直な子、いるよ? 頭の良い子もたくさん。何も達成していない学生のどこがいいの?」

 理人は何かを達成している人。リヒャルト・セリンガムは日本でも有名な文学博士。だからこそ、いろんな人を知っているだろう。花娃が世話になった市橋夫妻も、理人の知り合いだったという。そんな、優秀な人と知り合う機会はたくさんあるのに。

「君みたいに可愛くないことを言う子、僕しか引き取り手ないよ、花娃さん」

 普通に、花娃の癇に障ることを言ったので、花娃は理人の右腕を軽く叩いた。

「なにそれ」

「もっと美人で素直な子? いると思うけど、その中身は? 頭が良い子、どれくらい良いの? 何も達成していない、って、まだ学生なのに当たり前。君は、努力するでしょ? 達成した後もきっと君は努力を惜しまない。僕には分かるよ」

 言いきるのはどうして、といつも思う。

「そんなの分からない」

「そうだね、わからない。でも、きっとそうなると思う」

「分からないよ」

 花娃が言うと、理人は足を止めて花娃を見る。

「分からないのは君。どうして自分を下に下げる? 努力をすると言ったのは、嘘?」

 嘘なんかつかない。花娃は首を振った。

「達成したいよ、ちゃんと。やることがあるから」

「では、努力を」

 理人はにこりと笑った。同じ言葉を何度言われただろう。

「少なくとも、僕は努力してる」

 どんな努力だ、と思う。理人は努力をしなくても、なんでも達成できそうなのに。

「君を振り向かせる努力と、結婚する努力。あとは、君の悩んだ心を慰める努力と、可愛くないことを言う唇を行かに奪うか、という努力。車に乗ったら、キスしていい?」

「……篠宮さん、変な人。私みたいな子、誰も欲しいなんて思わない」

「それは良かった。他に男が出てきたら、もっと努力が増えるところだから」

 この人は本当に思ってくれているのだと、思っていいのか。

 でも、どうして。理知的でもない、頑固な花娃を。

「好きだよ、花娃さん」

 臆面もなくそう言う理人に、花娃は息を吸って、ありがとう、と小さく言った。

「お礼は唇で」

 こういうところは、やっぱり外国人だ。

 そう思いながら、理人の停車している車に乗って、そして頬を引き寄せられる。

 最初から深いキスをする理人に、小さく声を出して。

 久しぶりの感触と体温に、どこか安心したのは花娃だった。

 やることがたくさんあるのに、と思いながらも、今はこの恋に引きずられたかった。

【2013/10/05 08:42】 | Uniform | トラックバック(0) | コメント(0)

Uniform:12

 体重をかけてきた身体に抵抗をすると、花娃の手の上で、パンッ、と乾いた音がして、手が痛くなった。抵抗していた手が、理人の頬に強く当たってしまったからだった。

「あ……、ご、ごめんなさい」

 宙に浮いていた手を取られて、もう一方の手も一纏めにされて、ベッドに縫いつけられる。片手でそうされているのに、一向に拘束が外れなくて、見上げると、理人の頬に一筋の傷が入っていた。それを見て、抵抗を止めると、理人は花娃を見て一度手を止めた。

「抵抗は終わり?」

「……やだ、離して下さい。こんなの違う」

 理人の身体の下で乱された制服。黒と白のいかにも禁欲的な制服が、今はその意味を失くしていた。

「何が?」

「こんなの、合意じゃないですよ。お願い、離して」

「君が本当に合意で抱かれたこと、あるかな?」

 理人がいつもの笑顔を消してそう言って、花娃の手を外した。拘束が緩んだ手が、少しだけ痛かった。体重をかけていた身体が少しだけ軽くなる。花娃のブラウスの中にある手も離れた。

「いつも、合意です」

「嘘をついて。いつも勉強と恋愛を天秤にかけているくせに」

 理人が上から退いて、花娃を見る。

「だって、勉強しろって言ったの、篠宮さんでしょ!」

「そんな君に惹かれたんだ。いつも努力して、いつも悩みながらも前を見ようとするそれに。なのに、君は、いつも勉強の方にウェイトを置く。どうしてこっちを見ない?」

「見てます!」

「見てないね。もう、いい、わかった」

 青い目が瞬きをして、花娃のリボンタイを胸の上に投げるようにして置いた。

「勉強や研究にかまけて、オールドミスにでもなればいい。野絵留のように」

 その言い方に、普通に腹が立った。聖アンティエに誘ったのは理人。そして学者を目指す自分を見つけ出せたのは、理人のおかげでもあると思う。なのに、勉強をして努力すると決めたのに、理人は花娃が好きだと言ってきて。惹かれているし、ちゃんと合意で抱かれている。

 好きでなければ、抱かれないのに。

「ムカつく! 篠宮理人!」

 枕を投げつけると、その横顔に当たった。枕を受け止める理人をみて、もう一つの枕を手にとって、そのまま理人の身体を叩く。

「ちょっと、待って! 待って花娃さん、ストップ! 痛い、目、コンタクト!」

「え?」

 理人が左目を押さえて顔を顰める。目を横に引きのばして、瞬きをして手の上に小さいレンズが落ちてきた。何度も瞬きをするそれを見ると、本当に痛いのだと分かる。

「乱暴者」

「……どっちが? 篠宮さんだって、私の事ベッドに落とした!」

「平手で頬を張って、枕投げといて。どこが乱暴者じゃないと言える? こんなことされたの初めてだ」

 花娃を見て、少しだけ怒りの表情を浮かべる理人は、反対の目のコンタクトも外して、近くにあるテーブルに置いた。その上に置いてあった眼鏡を取って、それを身に着けて。花娃を見てから、ため息をつく。

「そんなに僕が嫌い?」

 言われて、すぐに首を振れなかった。理人の目を見て、そんなことないと、言えばいいのに、噛みしめた唇から言葉が出ない。

「嫌いな男に、なんで抱かれるわけ? 昨夜だって、どうして引きとめた? 君は勉強と研究さえあれば、それで満足? ここに至るまでの経緯は僕が作った。そんな対象として、見てなかったよ、最初は。君は、聖アンティエで実績を残して、院の卒業生として活躍するだろう、そう思っていただけだった」

 聖アンティエの実績。上がれば上がるほど、聖アンティエには有利だろう。最初、理人は花娃をそんな目で見ていたのか、と思った。

「まさか本当に努力をして、聖アンティエに入って来るとは思わなくて。それからもずっと努力をし続けて、両親に反対されながらも。そんな人、誰もいなかった。留学も決めて、言葉も文化も違う中でスキップも果たして、夢に一歩ずつ近づく、その努力する姿。何度も言うけど、本当に綺麗だと思う。……惹かれずにはいられない」

 どこが綺麗なのかと思う。何も持ってない、普通の日本人で、顔立ちも目が少しばかり大きいのが特徴なだけ。

 花娃が努力するのは、もう後には引けないから。何でもやってのける理人に嫉妬するけど、それが花娃には魅力的に見える。加えて、素晴らしい容姿。

 こっちだって、惹かれずにはいられない。

 でも、流されたらどうなるのだろう。結婚とか恋愛とか、そういうことをしたら、今までした努力は継続できるのだろうか、と。花娃はそこが不安でならない。こんなに魅力的な人から、何度も好きだと、結婚して欲しいと言われて、全くその気にならない人がいたら教えて欲しい。

「だって……私……」

 涙が出そうになる寸前で、インターホンが鳴った。最初は無視したのだが、何度も鳴るそれに苛立ったのか、吐き捨てるように息を吐いて、寝室から出ていく。そして、遠くから聞こえた、やあ、と言った声で宮前のものだと分かった。

「何の用です?」

 極めて冷静に応えるそれを遠くで聞いて、花娃は服を直した。ブラウスのボタンを止めて、リボンタイを拾ってソファーの近くに置いてあるバッグを手に取った。髪の毛を軽く整えて、一つ息を吐く。

「……怒ってるのか? というか、その傷、どうし……」

 宮前と理人の横をすり抜けて、一歩部屋から出るが、すぐに腕を掴まれて引き戻される。

「や……!」

「逃げないで、花娃さん」

 簡単に理人の腕に閉じ込められて、顔を上げると、宮前が呆れたような顔で笑った。

「何やってんだ? 篠宮君も、田村さんも。痴話喧嘩?」

 宮前の視線を反らして、理人を見上げると、理人は花娃を閉じ込めたまま、違います、と言った。

「この通り、田村さんが強情なので」

「ははっ、確かに。器用じゃないだろうからな、篠宮君と違って」

 声を出して笑ってそう言う宮前の言葉を聞いて、顔が熱くなる。

「その不器用さも可愛いんだろ? 自分が持ってないところに惹かれるのは、しょうがない」

 宮前を見ると、花娃の頭を撫でた。授業中にしたように。

「学生結婚をして、学者として成功する。カッコいい、シナリオだと思うけどね、田村さん。ま、頑張りなさい」

 そう言って、今度は理人を見た。

「君も頑張って、篠宮君」

 そうしてドアを閉められて、花娃は理人から離れようしたけれど、離れられなかった。

 理人を見上げると、ようやく腕の拘束を解いてくれて、花娃は自由になる。強い力とかに、理人が男性であることを感じて、一歩退いた。

「花娃さん、もう一度聞くけど……僕が嫌い? もしそうだったら、はっきり言って」

 そんなわけない。つきとめないで欲しい、と思いながらも、花娃は今度は首を振った。

「怖くないからって言われたって、怖いです。私、両方上手くやれる自信はないし、特に今は目指しているものがあるから。簡単に目指せるものじゃないです。研究とかそういうもので、身を立てる自信は、まだないのに」

「だから、花娃さんだったら出来るって言ってる。君は、考古学者になれるよ」

「なんで言い切るの!?

 理人はいつも花娃が学者になって、身を立てることが出来るといつも言う。その自信はどこから来るのか分からない。

「君は、自分を信じてるでしょ? 絶対になって見せるって。誰が何と言おうと目指すでしょ?」

 だからなんだというのか。理人は花娃を見て笑みを向ける。

「世界中の誰もがあなたには無理と言っても、自分は出来ると信じている。自分自身が出来ないと、思っていたら、目指すものは一つも達成できない。君は、思いの強さが違う。だから、僕は出来ると分かってる」

 顔がクシャリと歪んだのが分かる。涙が流れたのが良く分かる。

「まだ分からないでしょ? どうして篠宮さん、いつもそうなの?」

「だから、信じてるって、言ってるじゃないか。もし信じきれなくなったら、傍で信じてるって言い続けるよ」

 理人が花娃の頬に手を伸ばして、頬に伝う涙を拭って。

 花娃は、理人の肩を叩いた。二度三度叩いて、壁に押し付けてその身体に抱きついて。

「篠宮さん、バカだ。まだ何も出来てないのに」

「それは僕も一緒だと思うけど。……なんか、今日はいろいろ痛いな。こんなこと、初めてだ」

 しかもバカだと言われたと、笑って花娃の身体を引きよせる。

「オールドミスに、なる?」

 耳元でそう言った理人を見て、花娃は言った。

「後悔しますよ。絶対に、します」

「結婚してくれるんだ?」

 口を閉じると、理人は笑った。

「はい、って言ってよ、花娃さん」

 強く身体を引きよせられて、唇を奪われて、理人の背に手を回す。

 恋も、勉強も手に入れて、自分は頑張れるのか、と思いながら。

 

 

 花娃はもう一度ベッドに連れて行かれて、少し抵抗をしたけれど、それも難なく抑えこまれて、制服を剥ぎ取られた。昨夜と同じ、避妊具が入った箱を枕もとに投げて、昨夜よりも早急に、下着も全て剥がされてすぐに裸にされて。花娃が理人の服を脱がせたと言えば、ネクタイだけ。あとは脱がせる手も届かないくらい、花娃の身体は高められた。

「あ……あ……っ」

 胸を触られながら、唇にそこを愛撫されて。そしてその唇が下がって行って、足の付け根にきつくキスをされた。

「まって、しの、みやさん、待って……」

 下を見ると、理人が少しだけ顔を上げた。躊躇いもなく、花娃の足の間に顔を埋めて、そこに感じる柔らかい感触に口を開けて仰け反る。やめて欲しくて、上に身体を逃そうとすると、理人の腕がしっかり花娃の足を掴んだ。苛まれるような、理人からの行為を受けて、声がひっきりなしに漏れる。

 昨日よりも花娃の身体をいいようにされている感が否めない。何より、理人の整った綺麗な顔が、花娃の足の間に埋まっていること自体、心臓が苛まれるような気持ちになる。

「やめて……篠宮、さん……っ」

 お願い、と花娃が言うと、理人は顔を上げた。忙しない息を吐きながら、顔を上げた理人を見ると、その唇を舐めるのが卑猥に見えて、顔を横に向ける。

「花娃さん、結婚してくれるんだよね?」

 ゴムのパッケージを歯で噛み切りながら言ったことに、花娃は頑固にも頷けなくて。理人が花娃の足を開いて、避妊具を着けた自身を圧し当てる。身体が圧されるような感覚とともに、理人が花娃の足の間の隙間を埋めて、閉じていた青い目を開いた。

「昨日より、スムーズに入った。気持ちいい?」

 息を吐いて、そう言った理人の言葉に応えるのは悔しい。

 昨夜よりどこか感じているのを分かって、悔しいことに心が理人に向かっているのを感じて。

「言って、結婚するって」

 そう言って、身体を酷く緩く揺らされて、それがかえって花娃の中の官能を揺さぶる。

「やだ、これ……っ」

「花娃さん、ゆっくり動かすと、ダメだよね? 言ってくれるまでこのままだよ? どうする?」

 一度だけ強く突き上げられて、シーツを掴んだ。

「まだ頑張る? いいよ、君のおかげで耐久性、上がってるし。……半年以上もお預けだったしね」

 理人が笑って、ゆっくりと腰を動かす。そうして、花娃の胸に手を伸ばしてそこに触れて、唇を寄せてそこを食むようにされて。

 堪らない、と思った。

 綺麗な顔をした理人が、花娃の上で感じている。時々、吐息のような声が聞こえて、緩慢に揺らされるからだから伝染する、快感。いつも花娃が積極的に動いたことはなくて、理人が花娃へ施す愛撫を受けるばかり。理人の容姿とそれがどこか似合わない気もするのに、実際にされると心が酷く高まって、苦しくてしょうがない。

「も、だめ……っや。……や、くして」

 根を上げたのは花娃の方。まだ一回目なのに、これだけ高められてどうなるのだろう。理人の事だから、もう一度は花娃の中に自身を埋めて、そして快感を与えるはずだ。なのに、一度目でなし崩しで、あれだけ頑なにしていた自分を否定される。

「だったら言うんだね。結婚します、って」

 ああ、強引だ。そう思いながら、早く動いて欲しくて。耐久性なんて花娃の中では崩れ落ちていた。

「します……っは」

「何を?」

 強く突き上げた時、花娃は一度達してしまった。理人はイってしまった花娃の頬を撫でて、それでも緩く身体を動かすのをやめないから、また高まって行く。

「酷い……っ」

「どっちが? 僕は、待ったよ、花娃」

 は、と息を吐きながらそう言った。そして、言わないとこのままだ、とまた言って。

「す、る……っだから、動いて」

「だから、何を?」

 言わせようとするそれに腹が立って、肩を一度叩くけれど、その手を取られて背に回される。そのまま身体を引き起こされて、余計に花娃の中に埋まった理人が深度を増して進む。

「けっこ、ん、する……だから……っ、動いて……っ!」

 理人の目が花娃と視線を合わせる。早くして欲しいのに、理人は花娃の背を撫でて、笑みを浮かべた。

「すごく、長い道のり……でも、手に入る。君が」

 そうして花娃の要望通りに理人は動いて、花娃の名を呼んだ。それに応えることはできなくて、代わりに理人の身体を引きよせてこれ以上ないくらい密着した。

「好きだよ、花娃さん」

 理人の言葉に、花娃はからだを震えさせて、また達して。

 ベッドにもう一度寝かされて、上から理人が強く腰を揺らした。

 花娃の頭は、理人しか考えられないくらい、一杯になった。抱きしめられるからだの熱さが心地よくて、理人が達したのを見ると、それだけで感じた。

 

 

 最初の予告通り、結婚するというまで抱かれてしまって。というか、一度目であっさり陥落した自分がどこか悔しくて。理人が言う言葉に落とされた気分だった。

 自分が信じていれば世界の誰もが無理だと言っても、やり遂げることが出来る。その言葉が真実かどうかは分からない。けれど、理人のその言葉にいつも引っ張り上げられるのは事実。

 花娃は留学していながらも、自分を信じていなかった。出来ると思いながらもどこか疑っていた。留学もしているのに、自分の夢がかなわなかったらどうしよう、と。ずっと思っていた。

『だから、信じてるって、言ってるじゃないか。もし信じきれなくなったら、傍で信じてるって言い続けるよ』

 ダメだと思った。もう、この手を取るしかないと、この言葉を反芻すると余計に思う。

「何を考えてる?」

 二度、三度と抱かれてだるくてしょうがなくて、花娃は横を向いて脱力していた。理人の足が絡まってきて、長い腕が花娃の身体を抱きしめる。

「別に、何も」

「残念、僕の事って言ってくれたらいいのに」

 考えてましたよ、と心の中で言って顔が少し熱くなる。

「あとは、花娃さんが好きだと言ってくれたらいいな。そして、篠宮、じゃなくて理人って呼んでくれると嬉しいけど」

「……すぐには呼べませんよ」

「でも、結婚するって言った」

 花娃の耳に髪の毛をかけて、頬に手をやってから自分の方へ向ける。

「君も、篠宮になるよ?」

 小さく音を立てて、耳の後ろにキスをされる。

「そ、ですね。もし本当にするなら」

「まだ、そういうことを。嘘は罪だよ、花娃さん」

 瞬きをする青い目。

「どうして篠宮さんの目、青いの?」

 いつもこの目に有無を言えない気がしてならない。

 一番惹かれたのは、きっとこの目だ。

「……遺伝じゃない?」

「そんなこと、分かってます。バカじゃないから」

 顔を反らすと、花娃の身体を強めに抱きしめて。

「花娃さんは、僕の目の色、好きだよね?」

「そんなこと、ないです」

「それは嘘。嘘を重ねると本当に罪になるよ」

「説教は聞きたくないです」

 逃れようとしても強く抱きしめているので逃れられない。

「君が、いつもじっと見るの、僕の目だから。隠しても分かる」

 耳元で微かに笑うそれを聞いて、くすぐったさを感じる。

「黒い髪の毛に、青い目で生まれて、いいことはあまりなかったけど。花娃さんが気に入ってくれるなら、この目で生まれてきてよかったな」

 首筋に唇を感じて、そこに顔を埋められて。

「もう一度していい?」

 理人の抱きしめている手が、下の方へと滑って行くのを感じて。足の辺りに、理人の熱くなる身体も感じた。

「明日は授業ないでしょ?」

 甘くそう言われて、花娃は瞬きをして息を吐いた。

 なんで知ってるんだろう、と思いながら足の間に伸びる大きな手を感じて。

「……ぁ」

 小さく声を出すと、その手はもっと大胆に動いた。

 甘く苛まれる身体。

「好きだ」

 その声に応えたくなったのは自然なこと。

「私も」

 理人の青い目を見て、その目蓋に触れる。

 そうすると、理人が笑みを浮かべて、花娃の隙間を埋めていく。

 これからどうなるのか分からないが、宮前の言った意味が少しだけ分かった気がした。

 愛し合うのは幸福だ、と。

 

 

【2013/10/05 08:40】 | Uniform | トラックバック(0) | コメント(0)

Uniform:11

 聖カティアの大学院での、聖アンティエからの留学者に義務付けられているのは制服着用。聖カティアも制服があるので、それと見分けるためだというが、どちらでも一緒だと花娃は思っていた。

 午後からの授業に出るために制服を着て、コートを着て、家を出た。バスを乗り継いで、聖カティアについて、学生証を見せて、ようやく聖カティアの敷地内へ入ることが出来る。治安の関係でセキュリティが厳しいのはしょうがないが、日本では考えられないこと。適当に入れる学校と言う場所が、ここに来て意外と危険な場所なのだと、イギリスに来て思った。

 抱き合った相手が、意外にもセレブなのだと知った昨夜の事。今日の朝のテレビに映ったその人は、篠宮理人と言う名前。もう一つの、イギリス名はリヒャルト・セリンガム。日本で言う、ワイドショー的なニュース。子爵のタイトルを持っていると言った理人は、アナベラ・オルシーニという綺麗な人と話題になっていた。

『ただのゴシップ。僕が好きなのは君』

 予習なんかできなかった。帰ってくれと言った後、理人はあっさりと帰ってくれた。頬にキス一つをして、そして泊めてくれて嬉しかった、と言って。その言葉を反芻しながら、抱き合ったあとの倦怠感を感じて。頬を伝う雫を感じながらテーブルの上に突っ伏した。帰ってくれ、と言った自分の言葉にも、酷く後悔をした。

 授業は最悪。いつもは必死で覚えよとして聞くそれが、全く頭に入って来ない。予習もしなかったから余計についていけない。

 半年以上、理人と離れていた。メールをするたびに思い出して、電話をするたびに低くて澄んだ声を聞いて。すぐそばで瞬きをする青い目を思い出した。濃い青い目は、綺麗な形をしていて、その睫毛さえ青く澄んでいるようだった。敬虔なカトリックとは思えない考えも、その行動力も。すでに二つ目の博士号を取ろうとしているその頭脳も、花娃にとっては羨ましく、どうしてそんなことが出来るのか、と思うくらい。

 花娃は机の上の教科書を目の前に、小さく息を吐いた。

 理人という人に惹かれているのは最初から。顔立ちもそうだが、その前向きな生き方にも、惹かれている。花娃に持っていないものを、理人は持っているから。そう思うと、唇を引き締めて、歯を噛みしめてしまう。

「隣は空いているかな?」

 日本語でそう言われて、コツコツ、と人差し指で机を叩かれた。顔を上げると、見知った相手がにこりと笑う。

「……宮前、教授?」

「久しぶりだね、田村花娃さん」

 小さい声でそう言って、花娃の隣に座ると、宮前はにこりと笑った。そして、こちらを見る講師に、軽く手を振って笑みを向ける。それに対して講師は、ため息をつくようにして、授業を再開した。

「私もここに留学してた。あれは、後輩なんだよな」

 宮前奏は聖アンティエの神学科の教授。そして神父だと教えてくれたのは理人だった。

 花娃が宮前と初めて会ったのは、まだ出来かけの論文を発表した時だった。

「学校は? 楽しい? スキップしたんだってね、おめでとう」

「……ありがとうございます。あの、どうしてここに?」

「篠宮君と一緒に来たんだよ。もう少し交換留学生の数を増やして行こうかと思って。神学科は特に、日本には少ないしね。こちらの文化を少しでも入れて行きたいと思って。イギリスに来て、もう三日目だ」

 宮前は花娃をみて、笑みを浮かべてそう言って、それに、と口を開く。

「前二日は、篠宮君とここに来ていろいろと会議もしたんだけどね。彼は聖アンティエの理事で、経営に携わっているし。でも、純粋に学生としても見学して行ったから、制服を着てたけど」

「そう、なんですね。知りませんでした」

「君も見かけたよ。次の授業に間に合わないのか、走ってたな。篠宮君はそれを見て、頑張っているようすですね、と言っていた」

 そう言って花娃が宮前を見ると、宮前は指をさして前を見るように指示する。授業を受けているのに、結局は宮前の話を聞いているだけになっている。それに対して、ダメだと思いながら瞬きをすると、宮前が笑った。

「今日の授業一つ捨てたって、どうってことないだろ? 篠宮君は、授業は単位が取れる最低限しか出てないけどな」

「……ウソですよ」

「本当。まぁ、きちんと単位はさっさと取るけど、最後の授業なんてほとんど出ないな。教科書読めば答えがあるってさ。憎らしいよね、努力家には。ねぇ、田村さん」

 宮前が笑ってそう言った。確かに、憎らしいこと。花娃は何度も授業に出ているし、そして努力してスキップだってこなした。理人は学業のほかにも学校の経営に携わっている。確かに大変だと思う。全ての授業に出ているとは花娃だって思ってなかったけれど。

「篠宮さんがすごいのは良く知ってます。それで、なんでしょう、宮前教授」

 用事があるからここに来たのではないのか、と思いながら聞くと、宮前はにこりと笑った。年齢はかなり上だけど、この人が整った顔立ちをしているのは分かる。神父なのが惜しい、と院の学生の誰かが言っていた。

「昨夜は君の所に、篠宮君、泊まったんだろ?」

 宮前が意味深な目を向ける。花娃はその目を反らして、そうですけど、と言った。

「すごいなと思って。半年以上も離れていて、心が離れないなんて、篠宮君は情熱家だなぁ、と」

『リヒャルトの家系は情熱で出来ているの』

 相良野絵留がそう言ったのを思い出して、花娃は宮前を見る。

「宮前教授は、何が言いたいんですか?」

「篠宮君の事、許してやったら? 付き合いで行ったパーティーでスッパ抜かれたゴシップなんて、気に病むことはないと思うけどな」

「気になんかしてません」

「なんで? 好きなんだろ?」

 宮前から言われて、花娃は言葉に詰まった。宮前は笑みを向けて、たまには前を向いてないとな、と教団側を向いた。

「タイをしないまま帰ってきたところを、ロビーで会ってね。首尾はどうだったか、と聞くと朝のゴシップニュースで、怒っていた、と肩を竦めてた。……ま、確かに美人だ、家柄も申し分ないな、アナベラ・オルシーニは」

 申し分ない相手、アナベラ・オルシーニ。とても綺麗な人だったし、理人と並んで遜色なんて全くなかった。

「私もそう思います。前に、篠宮さんに言ったんです。他に誰かがいたら好きに付き合って下さい、って。私はまだ学生で、これからの事なんて、まだ分からない。篠宮さんは学者として成功し始めているのに、私は違う。それに、結婚だって、見合った人とだったらきっと幸せになるはずです」

 理人は二十六歳だった。誕生日さえ知らなくて、もしかしたらもう二十七歳になっているかもしれない。あれから半年以上たって、きっと理人は大学院を卒業するころ。理人の事を何も知らない、花娃が恋人のようなものを演じているのも、可笑しい話しだと思う。

「確かに、カトリックはカトリック同士が幸せになれるだろうけど。君は篠宮の事を好きじゃないのか?」

「知りません」

「じゃあ、何で愛し合う? もしどうでもいい相手としてるんなら、君は相当アバズレだな。私はそういう人間は嫌いだ」

 冷静な声でそう言われて、悪いが私は神父だから、と付け加えた。

「こういう話をするのは、篠宮君のため。恋は素晴らしいと思う、愛し合うことも素晴らしい。ただ、それは心の通い合った男女とするべきもの。もし、付き合ってやってるのなら、それは不純だ。優秀な彼に悪い影響を与える。はっきり別れるべきだな」

 花娃が宮前を見ると、宮前はにこりと笑った。はっきり別れるべきだ、と言われてそれが心に突き刺さるのは、どうしてだろう。優秀な人、良い家柄で、整った容貌、スタイルの良さ。何でも完璧にそろっている理人。まさに光ある人だと思う。花娃とは違う、と。

「そうですね。そうします」

 花娃が言うと、宮前は大きなため息をついた。

「私も頭が固いと思うが、君は相当なものだな。それに、頑なだ。優秀なくせに」

 どこが? と花娃は思った。優秀なんて言葉は花娃には似合わない。やっと最近になって両親が花娃の事を認めてくれた。スキップしたそれを褒めて、自分は努力を重ねて両親の思いに勝ったのだと思えた。理人に両親が自分を認めてくれた、と言うことをメールでそれを伝えた。スキップしたことは言わずに、ただそれだけ伝えた。メールでの返事は、花娃を嬉しくさせる内容だった。

『君の努力が実を結んだ結果ですね。果てない夢が届く一歩。これからも努力を惜しまないで。それが花娃さんだと僕は思います』

「優秀なのは篠宮さんです。私は遠く及ばないし、どうしてあの人が私の事を思っているのかよく分からない。私は自分の結果が出せるまで、自分を認められません。人はきっと、私の事を変な目で見るかもしれません。肩の力を抜けとか、言うかもしれません。でも、私はこれをやめられない」

 肩の力を抜いて、もし今をやめてしまったら。きっと花娃は二度と走れない気がした。

 もともと走るのをやめようと思っていた。それを理人から奮い立たされて、やはりこのレールを外れることが出来ないと、きちんと自覚して。そんな時に、理人から好きだと言われた。花娃が惹かれないわけはない。魅力的な人で、花娃をここまで引っ張り上げた人。

 でも魅力的すぎて、花娃は一般人過ぎて。どうして、こんなに頑なで、頭の固い自分を好きになってくれるのか。昨夜の熱心な行為だって、どうしてそうしてくれるのか。

「君と篠宮君は、正反対だな」

 柔らかい口調はさすが神父だと思う。けれどきっと、宮前は呆れているはずだ。

 そこで授業終了のベルが鳴って、ここまで、という講師が教科書を閉じる。いつもなら次回はどこをするのか、という予告をしてくれるそれを、花娃はキチンとメモするのに、今日ばかりはそれを聞き逃すはめになった。

「でも、君の努力する姿と崇高さは尊敬する。篠宮君が惹かれたのはそこかもしれないが」

 宮前は小さく声を出して笑った。

「もうすぐ制服を脱いで自由になる篠宮君を、世間は放っておかないだろう。善しきも、悪しきも。今回の話を断ったとしても、第二のアナベラ・オルシーニが現れる。それでも、その頑固さを貫いていくのか? 愛し合うのは罪ではなく、幸福だよ、田村さん」

 そう言って笑って立ち上がる。

「君に、もし篠宮君と付き合う気がないのなら、さっさと別れを告げるべきだと思う。でも、さっき言ったように、愛し合うのは罪じゃない。時に良い風を起こす時もあるだろう」

 顔を上げて宮前を見ると、宮前は花娃の頭を撫でた。

「今は整理がつかなくとも、すぐにわかるさ。私は神父だから、恋や愛はご法度だがね」

 花娃から手を離すと、花娃に言い聞かせるように言った。

「その幸福さを味わえる君たちが羨ましい時もある。若い君だから、恋と勉強、両方とっても行けるんじゃないか? がんばりなさい」

 花娃は一度顔を俯けて、そして離れて行く宮前を見る。

 花娃に言い聞かせるように理人の事を語って、そして恋も勉強も頑張れと言った。

 そんなに器用じゃない、と思いながらも、花娃の心の中は葛藤でいっぱいだった。

「流されたくないし、あんな人、繋ぎとめるものなんて、持ってない」

 涙が出そうになるのを堪えて、そして顔を上げる。

 今日の授業なんて、出るんじゃなかったと思いながら。

 

 

 今日は無理だと、そう思って残りの授業には出なかった。

 そうして向かった先はマンダリンオリエンタルホテル。午後三時を少し過ぎて、ついた場所はハロッズの近くで、いかにもイギリス的な建物。確かに一度は入ってみたいと思っていたけれど、目の前にすると入るのが躊躇われた。

 しかも聖アンティエの制服を着ているので、余計に、だった。

 それでも何とか一歩踏み出して中に入ると、綺麗な内装が目に飛び込んだ。ロビーにいる人々も、そのスタッフもみなどこか高級感のある人ばかり。花娃は深呼吸をして、フロントに足を進める。もう午後三時すぎ。すでに食事は終わっているだろう、と思いながら一つ息を吐いて、ホテルのフロントスタッフに声をかける。

「すみません、あの……」

 こちらを見るスタッフは笑顔だったけれど、どこか花娃の服装に不審そうな顔をした。聖アンティエの制服とコート。どう見ても学生のようなそんな恰好に、指定のバッグ。おまけに日本人の花娃だから、若く見られているかも知れなかったが。

「リヒト・シノミヤという人は、宿泊してますか?」

「お待ちください……ご宿泊されていませんが……」

 上目遣いで、不審そうな感じが余計に漂った。

「あの、じゃあ、リヒャルト・セリンガム、ではどうでしょうか?」

 それに負けずに言うと、ホテルのフロントスタッフは、顔を上げて言った。

「セリンガム様はご宿泊ですが、ご用件は?」

「私は、その、彼の後輩で……良ければロビーにいると、連絡を入れていただきたいのですが。私は、カエ・タムラです」

 かしこまりました、と言って受話器を取って連絡をしてくれた。けれど、しばらくすると受話器を置いて、申し訳ありませんが、と言った。

「セリンガム様は、ご不在のようです。何か伝言はございますか?」

 どこかに行っているのか、それともアナベラ・オルシーニと言う人の相手をしているのか。

「いいえ、結構です。ありがとうございます」

 花娃は断ってフロントから離れた。聖カティアの方へも用事があったと、宮前は言っていた。もしかしたらその関係で、不在なのかもしれない、と思いながらも花娃は大きなため息をついた。がっかりして。

 もし、アナベラと言う人の相手をしているのなら、どれだけ長い間相手をしているのか、と思う。自分で好きにして、と言っておきながらこういうところが気になる花娃は自分に、嫌気を感じた。

 もう一度ロビーを振り返ると、その場所自体にくらくらする気分だった。こんな場所に来たことがなく、勉強ばかりしている花娃には無縁の場所のように思えた。

「篠宮さん、この場所に来いって? 勇気いるよ」

 ため息交じりにそう言ったけれど、もう少し見ていた気持ちに駆られたのは、その内装が花娃の好みだったから。きっと花娃も気に入る、というような言葉を言った理人のそれが分かる気がした。たまたま開いていたロビーの椅子に座ろうとして、理人を見つけた。

「……篠宮さん」

 呟いてそれ以上声を出さなかったのは、アナベラ・オルシーニと一緒だったから。にこやかに話していて、けれどアナベラの顔がどこか歪んだ様に見えた。そのまま、理人に軽く抱きついて、綺麗な手が理人の頬に触れて離れる。

 花娃はそれを見て、二人に背を向けてロビーの椅子に座る。長い時間一緒だったのか、と思いながら、花娃の心は苦しくなっていく。これはなんだろう、と思いながらも、息を吐いてその苦しさを逃がそうと努めた。

 しばらくそうしていると、いかにもセレブのような綺麗でおしゃれな格好をしたアナベラが、花娃の横を通り過ぎた。その背を見て、息を逃すように何度も息をした。まだ苦しさが治まらない、と思いながら花娃は後ろを見た。理人はすでにいなくて、きっと部屋に向かったのだと、そう思った。

「授業はどうしたの?」

 顔を上げると、先程見た、黒いスーツ姿の理人が目の前にいた。花娃は、驚いて瞬きを繰り返した。

「この時間じゃ、まだ院にいるはずじゃない?」

「……取らなくてもいい授業だったので。上手く行ってるんですか? なんだか泣きそうだった。優しくしてやらないと、女の子に愛想尽かされますよ?」

 花娃が言うと、理人は小さく息を吐いて、花娃の手を取った。

「部屋で話そう。おいで、花娃さん」

 部屋に行ってはいけない気がしたが、花娃はその手に引かれるままに立ち上がる。

 そうして向かって乗ったエレベーターは、どこかレトロな感じに仕上げてあって、花娃の好みだった。

「いいホテルですね」

「花娃さんが気に入りそうだと思って、選んだから」

 そう言って笑顔を向ける理人を見て、すぐに目を反らした。

 エレベーターが止まって、理人は花娃の手を引いて部屋に向かう廊下を歩く。迷いもなく歩いて廊下には、ドアが少なかった。キーでドアを開けて、入った先はイギリス風の絨毯が敷かれた、雰囲気のある部屋。それを見て、花娃は何度も瞬きをしてしまう。ソファーに座るように言われて、座って、コートを脱ぐ。そのすぐ隣に理人が座る。

「まさかこんなに早く来るとは思わなかった。来ないと思ってたから」

 理人の笑みはいつも花娃を魅了する。特徴的な青い目に目が行ってしまうのはしょうがないこと。それでもすぐに反らしたのは、先程のシーンが蘇るから。

「アナベラには、気持ちには応えられないって言ったよ」

 花娃が顔を上げると、理人は花娃を見る。

「どうして? いい人だと思います。綺麗な人だったし、お似合いだった」

「どうしてそういうことを言うかな? 君が好きだと言ったのに」

「意味が分からない。まだ学生で、何も達成してない私なのに。……どこが好き? こんなに私、頑固で……篠宮さんには可愛いところなんて見せたことないのに。……もう、やめてください。私も、やめますから」

 花娃はそこで一度言葉を切って、そして理人の青い目を見て、口を開いた。

「もう、別れてください。嫌です、もう、こんなの」

 理人の事を宮前から言われて、そして思うのはやはり花娃では理人に合わないと思うこと。

 そしてもうすぐ制服を脱ぐ彼が、これからまた誰かに言い寄られるのを見るのは嫌だった。そして、その優秀さを見させられるのも。

「僕も嫌だな、君のそういうの。君は僕に学業とかそういうものでは、一生敵わないよ。君とはまずIQから違う」

「は? IQ?」

「平均が百だとしたら、それより八十は多い。元から普通の人と違っている。競争しても努力しても、頭脳の面では君は当たり前に負けるんだ。そんなものに嫉妬しても、意味がない」

 こんなこと話したくなかった、と言った理人はため息をつく。

「どうすればいい? 学業はともかく、その他は? 君が頑固なのは良く分かってるし、それにその頑なさはある意味尊敬できる。それくらい強く、君に思われたいくらい。……花娃さんの努力する姿は綺麗だ。そこに強く惹かれる、すごく好きだ。別れるなんて、嫌だ」

「でも……」

 だって、どうすれば。

 まだ、理人との、好きだという気持ちに応えるわけにはいかない気がした。花娃はそれだけで意志が弱くなるのを感じる。

「昨夜はあんなに素直に身体を開いたのに、どうしてたったあれだけの事でそうなる?」

「あれだけの事、じゃない。だって本当に似合ってた。本当に素敵な二人に見えた。ロマンスなんて報道されて、誰もが信じますよ、あれは。私みたいな日本人の学生よりも、よっぽど絵になって綺麗だった。これからだって、ああいう人、出てくるに決まってるから」

 花娃は本音を出し切ったように思えた。それでも足りなくて口を開く。

「普通のサラリーマン家庭の普通の女です、私。ただちょっとだけ努力したら、自分が学者になれそうだという夢が出来ただけの、それだけの女です。何も持ってないし、小さなアパート暮らしがせいぜいの、まだ学生。……篠宮さん、そんな私でいいわけ? いいわけないですよ」

「そんな花娃さんの、何が悪いわけ?」

 即答されて息が詰まった。

「だって、僕と父はイギリスで生きるというラウンドを捨てて日本に来た。タイトルはあっても長く社交界に出ていない僕たちは、もう名前だけの貴族。あんな風に騒いだのは、オルシーニ家が社交界で有名だから。もし、君とだったらゴシップにもなりはしない。報道もされることはない。それに、花娃さんは普通に生きれないと思うよ」

 理人は花娃の頬を拭った。いつの間にか涙が頬を伝っていたらしい。

「どうして?」

「君は絶対、考古学者になって、そして有名になるから。思いと努力は、真実になるように決まっている」

 花娃は詰まっていた息を吐いた。理人は、花娃の肩を引き寄せる。

「何も怖くない。怖がらなくていい。もっと僕の傍においで、花娃さん」

「怖がってません」

 花娃が外を向くと、理人は花娃の耳の上で笑った。

「僕は、努力する花娃さんが好きだ。ちなみに、市橋夫妻の夫の方だけど、奥さんが本当に振り向いてくれるまで、十二年も待ったらしいよ。振り向いてくれなかったら、あと十年待つつもりだったって。……本当に、気の長い話し」

 理人は花娃の頬に触れて、そして少し上を向かせる。

「僕はそんなに待たないし、別れると言っても別れない」

 理人はそのまま花娃の唇にキスをした。軽く唇を挟むようにして、すぐに離れて、花娃の名を呼んだ。

「半年以上前に言ったこと、もう一度言うけど、結婚して。そして、傍にいて」

「い、嫌です。そんな風に逃げたくない」

「逃げじゃない。半年離れて、やっぱり君が傍にいないと、僕がだめになりそうだった。僕のために、結婚して」

 青い目が瞬きをして花娃のすぐ近くで、その澄んだ思いを告げる。

 どうしてこんなに素直に、しかも情熱的に言えるのか。

 理人はしっかりと外国人だ、と思いながら花娃は首を振った。

「まだ、学校、卒業してない……っ」

 今度は本格的に唇を奪われて、ソファーの背に身体を押し付けられる。

「成人してるのに、それって問題かな?」

 十分問題だ、と思いながら、先程までの自分の思いはどこに行ったのか、と思う。

「いや、ダメです! ……篠宮さん……っ」

「結婚したら、君だけになるのに、嫌なの?」

 凶器のような甘い色を浮かべる青い目に見られて、花娃はこれをどうかわしたらいいのか、と思う。

 まだ未熟な学生で、何も達成していない、二十四歳になったばかりの花娃。

 首を振って、理人を見ると、理人はため息をついて、花娃から一度離れた。ホッとするのもつかの間で、花娃は理人の肩に抱えあげられる。

「きゃあっ! ちょっと! 篠宮さん!」

 ボンっ、とベッドの上に落とされて、身構える暇もなく、理人が花娃の上に覆いかぶさって。

「ベッドの中では素直だし? 結婚すると言うまで、抱こうか」

 瞬きをして見上げると、花娃のリボンタイが引き抜かれる。首を振ると、その顔を両手で包まれて、じっと見みつめられて。

「結婚して、花娃さん」

 胸に触れてそこを服の上から食むようにして口に含んで。

「い、や……っ、強引! 篠宮さん、キャラ違う!」

「強情。そこも好きだけど」

 笑った理人は花娃の服を脱がしにかかる。それに抵抗すると、乱暴したくないよ、と体重をかけて来て。

 少しだけ息が詰まったその時に昨日と同じような息もつまるキスをされた。

 

 

【2013/10/05 08:38】 | Uniform | トラックバック(0) | コメント(0)

Uniform:10

 イギリスに来て半年以上たって。論文も書きながら何とか頑張って、成績も維持したおかげで、スキップが決まった。一年短縮はすごい進歩。とても嬉しくて、今までお世話になった市橋夫妻や、相良教授にメールを送った。これで緩んではいけないと、そう思いながらも、スキップが決まったことは、少しだけ肩の荷が下りた気がした。

 住んでいる場所は狭いアパート。教材とテーブルとベッドがあったらやや狭さを感じる程度。それでも立派な台所もあって、快適に暮らせる。ただし、この風呂だけはどうしても慣れない。たまにお湯の出が悪くて、とても困る。冬を越せるのだろうか、と思ったら、工事をしてもらって何とかきちんとお湯が出るようになった。

 自分は恵まれていると日々感じながら過ごしていた。スキップが決まって、勉強をしている或る夜に、インターホンが鳴った。来るのは大学院の学生友達くらい。けれど、今日はそんな連絡もなく、ドアスコープを覗くと、予想もしない人。メールのやり取りはあっても、ここに来たことはなかった。初めて来たその人を見て、緊張をしながら、ドアを開けて見上げると、黒いコートを着たその人は青い目でこちらを見た。

「久しぶり、花娃さん」

「……イギリスに来てたんですか?」

「用事があって。出かけ先からそのまま来た」

 そう言う相手をよく見ると、黒いコートの下は蝶ネクタイを身に着けたスーツだった。足元はピカピカの綺麗な靴を履いている。そういう姿が様になっていて、花娃は目を見張った。

「中に入れてくれないのかな?」

 苦笑したその人を家の中に入れた。はっきり言って狭いアパートのいるような人には見えなくて、花娃は気後れする気分だった。

「綺麗に片づけてる」

「狭いから。篠宮さんは、何かのパーティーの帰り?」

 コートを脱いだのでそれを受け取る。黒のジャケットと黒の蝶ネクタイ。中にはドレスシャツを着ていて、どこの貴族様だと思った。イギリスは貴族社会とかそういうものが根強く残っているのが良く分かる。

 篠宮理人。花娃の恋人のような人。

「篠宮さん貴族みたいですね」

「一応、子爵のタイトルは持ってるけど。今日はどうしても外せなくて」

 初めて聞いた事実だった。青い目をした黒い髪の整い過ぎた優しげな顔は、いつ見ても見とれるほど綺麗だった。

「すごい、初めて聞いた」

「初めて言ったから。社交界にもほとんど顔を出さないし、こちらの城も館も全部売ったから。もう戻って来ないと思われてると思う」

「しろ、ってお城ですか?」

「うん、まぁ、そう」

 最後は言葉を濁して、笑みを向けて小さなテーブルの椅子に座る。

「お茶を用意するから待ってて下さい。今日は実はお菓子も買って来たんです」

 ちょうどよかったと思いながら紅茶を用意して、お茶菓子も置いた。マカロンとショートブレッド。こっちの方は焼き菓子が多いことを一番に感じた。

「ありがとう」

「……本当に久しぶりですね」

「君はメールはくれても電話はくれない。別にいいけど」

 何度か理人から電話がかかってきた。ほとんど留守電で、二回くらいしか出たことがない。花娃もメールしかやらないから、いつの間にかそうなってしまった。

 紅茶を一口飲んで、理人は花娃を見た。瞬きをしてその視線を受け取ると、理人は笑みを浮かべて言った。

「今夜泊めてくれる?」

「え? あ、でも、ベッドシングルで狭いし。あとは小さなソファーしか……」

「シングルでくっついて寝るのもいいと思うけど。だめ?」

 久しぶりの誘惑めいた言葉。理人はいつも積極的だと思う。

 理人と寝たのは一度だけ。その後すぐに留学を決めたから、それ以来会っていない。

 期間は半年以上。

「僕は君と別れたつもり、ないんだけど」

「そうで、すね」

 花娃が笑うと、小さなテーブル越しに、理人の大きくて綺麗な手が、花娃の頬を包んだ。

「篠宮さん、ホテルに泊まってるんでしょう? 帰った方が快適に眠れるし、ここはシャワーもなんか時々おかしいし」

 理人が花娃の家に泊まる。くっついて寝る。想像することは一つ。花娃がごまかすように言うと、理人は笑みを浮かべたまま言った。

「じゃあ、花娃さんが僕のホテルに来る?」

 花娃が理人を見て、目を伏せると、花娃の頬から手を離して、紅茶を飲む。

「ちなみに、シングルじゃないよ。綺麗にメイクされた、綺麗なベッド」

 カップを置いて青い目が花娃を見て、思わせぶりに瞬きをして。頬杖をついて、笑みを浮かべる。

「マンダリンオリエンタル、ハロッズの近く。どう?」

「リッチぃ……」

「あの建物とか、中身とか、花娃さんも女だから好きだよね? 入ってみたくない? シャワー浴びて、お酒飲んで、一緒に寝ない?」

 理人が言うセリフは、明らかに花娃を誘うセリフ。目線も、頬笑みも。

「誘ってます、よね?」

「もちろん。たった一回抱いただけ。そして半年以上、会ってない」

 綺麗な格好をした理人。顔は整っていて、綺麗な顔。けれどその服の中身はきちんと、程よい筋肉が張った男そのものだったことを思い出す。

「明日は……」

「昼から出て行けば充分でしょ? 良く知ってるよ、聖カティアだから」

 テーブルの上に置いていた手を取られて、指を絡ませられる。

 目を伏せて、睫毛さえ青く見えるような、その目が思わせぶりに花娃を見て。

「おいで、花娃さん」

 花娃は、大きく息を吸って吐いて、理人を見る。

「昼前には帰りたいです」

「ここに? いいよ、送ってあげる」

「午前中、早めの時間に……」

「授業は午後一時四十五分から。早めに戻ってどうするの?」

 よく知ってるな、と思いながら花娃は答える。

「予習です。授業中に眠りたくないし」

 理人はため息をついた。

「来ないんだね?」

 小さく頷いて、紅茶を飲み干して、理人は席を立った。

「帰るよ。ありがとう、紅茶ごちそうさま」

 にこりと笑った理人はかけてあるコートを手に取った。それを着て、こちらを見る。

「じゃあまた。あと二日はイギリスにいるから」

 背を向けて鍵を開ける。ドアを開けたところで、花娃は立ち上がって、理人の腕を掴んだ。

 何故そうしたか、何故引きとめたのか。

 本当に明日は授業があって、昼からだとしても、予習をいつもしていて。だから今日は予習をして少し早めに寝て、遅く起きてまた少し予習をして、聖カティアの大学院へ行くつもりだった。

 理人の事は、恋人のような人だと思っている。嫌いじゃなくて、抱かれるのも嫌じゃなかった。

 ただ、いつも嫉妬している。理人の頭脳とか才能に。それだけのものが花娃にあったなら、花娃は素直にもっと理人の事を好きになったと思う。

「シングルベッドでいいですか? ……シャワー使いにくいですけど」

 声が小さくなっていく。何を言ってるんだと思った。

「あと、ゴム……あるなら」

 花娃は理人の手を離した。

 見上げると、青い目が花娃を見て、小さく息を吐いた。そして、ドアの鍵を閉めて、チェーンをかけて。

「……っ!」

 強く抱きよせられて、息も止まるようなキスをした。

 

 

 玄関の壁に押し付けられて、繰り返しされるキスに酔って、膝が崩れ落ちそうになると、理人は花娃の足を少し浮かせるくらいに抱きあげて背中に手を回す。キスをしながら移動するのに、花娃は理人のコートを掴むことしかできなかった。

「しの、みや、さん……避妊、してくれなきゃ、やだ……っ」

 花娃の身体がベッドに運ばれて背がそこについて、上からキスをされる。息をさせないように、声を出させないように、そんなキスだった。理人は花娃が言った言葉を理解しているのか、と思いながらも、首筋に顔を埋められてそこに唇の感触を感じると、思わず首をすくめて声が出た。

「ぁ……っん」

 篠宮さん、と花娃が理人を呼ぶと、理人は花娃の手の上に固い感触のものを乗せた。なんだろう、と思って掴むと、それはまだ新しい小さいコンドームの箱。

「避妊は罪だけど、しょうがない」

 コートを脱いでジャケットも脱いで。首にしっかり締められていた蝶ネクタイが、理人の綺麗な指で、性急さを感じさせるほどの仕草で解かれる。サスペンダーを外して、ドレスシャツのボタンを片手で器用に外しながら、花娃の身体に覆いかぶさった。唇を噛むようにキスをされたあと、花娃の上着を引き上げて、下着のホックを外す。その下着も押し上げて、理人の頭がそこへ沈んだ。

「……っ、……っは」

 久しぶりの感覚。初めて理人に抱かれた時も、胸を長い時間愛撫された気がする。そうしながら、大きな手が花娃のスカートに入って、下着とタイツを一緒にずらした。スカートのファスナーも下げて、全て一緒に脱がされて。理人の背に自然に回った手が、シャツをギュッと掴んでいたことを思って。

 綺麗なシャツが皺になっているだろう、そう思って指を何とか開こうとして、そして開いたけれど。

「あ! ……っ、やだ、ま、って」

 下半身の全てを脱がされて、足の間に手が入る。開いていた足を閉めたけれど、そこの指が動いて、唇を噛みしめて、理人のシャツを掴んで背を反らした。

 胸と足の間。両方を理人から触れられて、花娃の身体は急激に高まる。心臓の音がうるさい。早くなっていく息と声を止められない。

「しの、みや、さん……っ」

「花娃……」

 吐息のように名前を呼ばれて、余計に苦しさが増した。理人は花娃の胸から唇を離して、そして花娃の上着を完全に取り去る。

「手、離して、花娃。シャツが脱げない」

 ずっと握っていたシャツを言われて離して、シャツを脱いだ理人の肌が露わになる。程よく筋肉の乗ったからだ。勉強ばかりしているのに、この身体なんだ、と思う。理人の中に流れる外国人の血が、体格を良くさせるのか、なんなのか。コンドームの箱を手にとってそれを開けて、適当に取り出すのを見る。

 そうして、スラックスのジッパーを下げるのが分かって、理人の興奮しているそこを見て。

「篠宮さん、他の誰かと、した?」

 あんまり会いに来ないでください。他に誰かがいたら、好きに付き合って下さい。

 花娃はそう言って理人と空港で別れた。

 理人はその通りにしたのだろうか、と思う。少なくとも、あんまり会いに来ないでください、という要望には応えてくれていたと思う。

「君がいるのに、するわけない」

 きっぱりと答えた。本当にそうだろうか、と思いながらも、嘘はつかない気がした。

 綺麗な理人の下半身は欲を示していて、花娃は思わず息を飲んだ。目を閉じて、顔を反らして、開かれる足をそのままに、力を抜いた。

「痛かったら、言って」

 顔を反らしたまま目を開いて、これからされることを想像して、何度も呼吸をした。片手は花娃の膝の上に置いて、花娃の足の間に手の感触を感じたと思ったら、大きい固いものが花娃の隙間を埋めた。

「ぁ……っ」

「……は」

 理人の息を吐いたそれが小さな声に聞こえた。

「……っ、篠宮さん」

 久しぶり受け入れたそれは質量が大きくて、花娃が眉を寄せて名を呼ぶと、理人は頬に触れて笑みを向ける。

「痛くない?」

 頷くと、頬にキスをして、耳元で口を開いて理人は何かを呟いた。思わず赤面するその言葉に、思わずその肩を拳で軽く叩いて。声を出して笑う理人は久しぶりに見たと思った。

「動かないの? 篠宮さん」

 花娃の中に入ったまま、動かない理人にそう言うと、理人は花娃に小さいキスをした。

「もう大丈夫? 慣れた?」

 理人自身はきっと大きい方だと思う。少ない男性経験上の事だが、そんな気がする。花娃はすぐにいっぱいになってしまうから。大腿の上を、大きな綺麗な手が滑るのを見て、花娃がもう一度頷くと、理人は足を抱え直して、腰を花娃に押し付ける。

「んんっ」

「花娃の中、狭い。半年前と変わらない」

 そうして緩やかに動き出すのを感じて、息を詰めて吐き出して。拠り所のない手を理人の腕に絡めた。

「あ、あ、しの、みやさん」

「その、切なげな声、すごくイイけど……。理人、ほら、呼んで」

 少し腰を揺らす速度が速くなって、理人からそう言われて、目を開ける。瞬きをして、青い目を見て。

「り、ひとさ……っん、もう少し、まだ……ゆ、っくり」

「無理、よすぎて、むり」

 片言のように、そう言って、花娃の中を出入りして、時々その中を回すようにして。

 一度抱かれた時と違って、二度目はどこか執拗な感じだった。花娃の官能を引きだすように触って、繋がった部分を揺らした。声が上がって、それでも大きな声を耐えたのは、隣に聞こえるのではないかと思ったから。花娃のアパートは治安は良いが安い物件。隣の話声も聞こえる時がある。

「となり、聞こえる」

 理人の腕を掴んで、そう言うと理人は花娃の身体を引き上げた。より深く理人を受け入れることになって、息を詰めて理人の肩にしがみついた。

「隣の真面目そうな日本人、男とやってる、って?」

 綺麗な顔をして、そんなことを言うのか、と花娃は息を詰めながら思って。

「それが何か、悪いこと?」

「理人、さん、カトリックのくせに」

 聖カティアに来て、特にそう言うことを感じるのは、ミサとかそういうものに出ることが多いから。そして、カトリックに基づいた授業だってある。だから、少しばかり詳しくなってしまった。こういうのも、罪である時が、あること。

 花娃がそう言うと、理人は花娃の身体を下から突き上げて笑った。

「愛しあうことは罪じゃない」

 そうして、花娃の身体を何度も下から突き上げて。何とか声を堪えようとするけれど、声が出てしまった。

 何度もそうされて、キスをして、腰を引き寄せられた時に、背を反らして理人の肩に回した手に力を込めて。心地よさとか苦しさとかがない交ぜになって、達して。

 その後何度か腰を揺らされて、そして腰を強く引きよせたかと思うと、何度か強く打ちつけて、その動きが止まる。達した余韻と、そのあと内部を打ちつけられたそれで、身体が酷く脱力して。

「して、良かったでしょ? 花娃さん」

 理人の身体に身体を預けて息を忙しなく吐き出して。

 理人の大きな手が背を撫でた。

 花娃の息を整えるのを、手伝うように。前も同じようにされて、心地よく感じたのを覚えている。

「理人さんは?」

 少しずつ整ってくる呼吸の合間に、質問し返すと、理人は耳元で微かに笑った。

「よかったよ。証拠、見る?」

 そう言って花娃の身体を横たえて、理人はつながりを解いた。

 それにすら感じてしまって、甘い声が出て、恥ずかしかった。

 

 

 何度も抱き合って、狭いシングルベッドの上で、ようやく息が整った。そうすると、壁側の理人が花娃の身体を抱きよせて、肩にキスをした。

「学校はどう?」

 耳の辺りでそう言われて、少しくすぐったさを感じた。

「とても、楽しいです。スキップしましたよ」

「ああ、そうだった。おめでとう、花娃さん」

「……まだまだ、ですけど」

 やっと一年スキップしただけ。あと一回しなければ、目標とするところへ行けない。博士号を取って、そして日本に帰ってきちんと考古学者として研究を進めたいと思う。それが出来るための一歩を進めたばかり。

「篠宮さんには及ばないから」

「理人、だよ、花娃さん」

「理人さん」

「さん、もいらないな。理人でいいのに」

「じゃあ、花娃って呼ぶべきですよ」

 たかが名前くらいで問答したところで理人が笑って、花娃さん、と言った。

「君は、花娃さん、でいい。でも、僕は理人、いい?」

 耳に髪の毛をかけられて、そこへ小さいキスをされて。なんだか変だ、と思う。今日は理人の魔法にでもかかったように、理人の言うことを聞きたい気分だった。

 いつも反発しているのに、どうしてだか今日ばかりは胸が高鳴って、彼の言い分を素直に聞いた。

「じゃあ、理人。もう寝ませんか?」

 理人は笑って、深く花娃の身体を抱きしめて、そして首にキスをした。

「そうだね、今日はもう寝ようか」

 腕の中にしっかりと閉じ込められて、花娃はそれに身を預けて目を閉じる。

 けれどすぐに開けて、理人に言った。

「寝にくくないですか?」

 花娃が言うと、理人は小さく息を吐いて、言った。

 寝にくさも、愛しあった証拠、だと。

 訳が分からない、と思った。

 

 

 翌朝、遅い時間に起きて、肩が痛いと思った。抱きしめられて腕枕で寝ると、肩がこるものらしいと、花娃は気付いた。理人はすでに起きていて、どこかの朝食でも食べに行く? と言った。花娃が首を振ると残念そうに、まだ裸の身体を起き上がらせて、シャワーを浴びに行った。

 あまり強く水の出てこないシャワーを浴びて、面白いな、と言いながら出てきて。交代で花娃もシャワーを浴びた。

 紅茶を入れて、昨日の焼き菓子を朝ご飯代わりのように二人で食べて。テレビをつけると、日本ではワイドショーのようなニュースがあっていた。ゴシップのようなそれを見て、理人はため息をついた。

「やっぱり、ホテルのご飯、食べない?」

「そんなお金ないですけど」

「僕が出すのに」

 お金持ちめ、と思いながらテレビに視線を移すと、違うゴシップに変わっていた。

『マーティン卿、リヒャルト・セリンガム氏と、イタリア貴族の末裔でセレブの、アナベラ・オルシーニとのロマンスは……』

 テレビの画面には、昨日と同じ服を着た理人がいた。

『社交界から消えていたセリンガム家は名門であり、敬虔なカトリック教徒の家柄。同じくオルシーニ家もまた……』

 テレビの画面が音を立てて黒くなった。

 理人の綺麗な指がリモコンから離れて、大きく息を吸って、大きく息を吐いた。

「つまらないゴシップを。いつの間に……」

 黒くなった画面にそう言い放って、花娃を見る。

 綺麗な人だった。ブラウンの髪の毛と、同じ色の目を持つスラリとした綺麗な人。背も高そうで、理人の隣にいて遜色なく、上品で。

「なんだ、篠宮さん、誰かいたんですね」

 花娃がそう言うと、何度も青い目が瞬きをした。そして、違う、と言った。

「ただのゴシップ。僕が好きなのは君」

「でも、テレビの中の篠宮さん、昨日と同じ恰好。デートの後、ここに来たんですね」

 何が違うのか、と思う。けれど、理人は嘘はつかないとも思う。

 ただのゴシップで、理人が好きなのは花娃だと。嘘はないように思える。

「花娃さん、あれは、デートじゃない」

「じゃあ、何?」

「オルシーニ家が主催したパーティー。出席しないと、父がうるさいからそうしただけだ」

 そこをたまたま写された、と理人は言った。

「篠宮さん、別に、いいです。他に誰かがいたら、好きに付き合って下さい、って言ったの私だし」

 普通に笑ったと思う。でも、笑えてない気がした。

「正直に言うと、この後、ランチも一緒にしなければならない。でも、ただ、セリンガム家としての建前。僕が好きなのは、何度も言うけど、花娃さんだけだ」

 その頭脳にも心にも惹かれるのは君だけ。

 そう言った理人を思い出す。

「篠宮さん、でも、あんなに綺麗な人だし。私はただの学生だから……だから……」

 好きに付き合って下さい。

 そう言うつもりだったのに、言えなかった。どうしてだろう。昨日熱く抱かれたからとでも言うのか、と花娃は心の中で考えながら、理人を見る。

「花娃さん、僕は理人。昨日、そう呼ぶように言ったよね?」

 理人は青い目で見て、瞬きをして、本当に作られたように綺麗な顔をしている。

「僕は、君の頭脳も心も、本当に欲しくて堪らない。あれは、本当にただのゴシップ」

 理人が手を伸ばして、花娃の手を掴んだ。花娃はそれを見て、小さく息を吐いた。これ以上なんだか心を乱されたくなかった。

「帰ってください。授業の、予習を、するので」

 花娃が言うと、理人は大きくため息をついて手を離した。

 分かった、というように立ち上がって、ジャケットを着た。

「マンダリンオリエンタルでランチなんだ。あと二日滞在するから、よかったら今日の夜にでも来て欲しい。来なかったら、僕がここに来るから、夜はいて。いい?」

 花娃は頷かなかった。

 理人はそれを見て、コートを手にとって、それを着て。花娃の頭を撫でて、頬にキスをしてそして言った。

「泊めてくれてありがとう、すごく嬉しかった」

 花娃が見上げると、いつもの笑顔。

 その睫毛さえ青く見えるようなその目が瞬きをして、小さく手を振る。

「きちんと鍵、しめといて」

 頷くと、理人はそのドアを開けて出て行く。

 音を立ててドアが閉まって、花娃は立ち上がって、鍵を閉めた。

 そうして、もう一度テーブルに戻って、予習をしなければ、と思った。

 なのに。

「どうして、足が立たないんだろう……」

 テーブルに縫いつけられるように、花娃はそこから動きたくなくて。

 理人の先程のゴシップを思い出して、胸が苦しくなるのを抑えきれずに。

 頬を伝う雫を感じて、何をしているんだろう、と思った。

 昨夜の余韻、倦怠感を感じながら。

【2013/10/05 04:18】 | Uniform | トラックバック(0) | コメント(0)

Uniform:9

 英語はできるのかと問われた。出来ないけれど、努力すると答えた。

「あなたはきっと努力できると思うわ、花娃。でも、あなたリヒャルトから逃げたいからそうするの?」

 紅茶を出してもらって、それを飲みながらそう言われて、花娃は声のトーンを落としながら答えた。

「そうではないです。ただ先生が、提案したから」

 そうではない、と言いながらも、実際はそうだと思う。

「確かに提案したけれどね。聖アンティエとカリキュラムも似ていて、交換留学もしている聖カティア大学。考古学を学ぶなら、あそこは最高よ。私も卒業生だから」

 篠宮理人からあることを言われた次の日、相良野絵留から提案されたのは、留学のことだった。たまたまそういう話になったのは、もっと知識を得るためには、と相談したからだった。学校の勉強だけでは足りない気がして、そう言ったら留学の話になったのだ。

「リヒャルトから何か言われたの? 厳しこと? それとも甘い提案?」

 相良にこりと笑った。赤い唇に弧を描いて。まるでわかっていると言うように。

「あなたが駄々をこね出すのは、結局リヒャルトがらみ、ってことが多い気がするわ。まぁ、それは最近だけどね。結婚してほしいとでも言われた? あの子、気に入ったものは手に入れないと気が済まないし、傍に置いておきたいの」

 花娃は唇を閉じた。

「あら、図星? やるわね、リヒャルト。さすがセリンガム家」

 意味がわからないことを言われて、花娃は眉を寄せた。

「何ですかそれ?」

「前に言ったでしょ? リヒャルトの家系は、情熱で出来てるの。欲しいものは手に入れるし、やりたいことは必ずやるの。優秀な頭脳を持つ家系でもあるから、リヒャルトはまんまその典型ね」

 それに、と相良は花娃を見て、にこりと笑った。

「あなたのことは、なんだか本当に気に入っているようだし。本当に、育ってほしいみたいよ? 学者として」

 本当に気に入っていると言うのは、どうだろうか。

 花娃はつい先日、理人の家で、理人に抱かれた。聖アンティエの硬い制服をネクタイを外して、一枚ずつ脱いで、ベルトに手をかけたとき。作り物のような理人の身体の一部は、花娃を前にして感情が高ぶった男になっていた。

 今まで可愛い態度を取ったとは思えない、花娃にどうしてそんな風になるのかと思った。下の下着だけ取られて、スカートをたくし上げたまま、初めて花娃の身体に理人が入った時。

「そうとは思えません。結婚してほしいなんて、私のこと馬鹿にしているとしか思えないし」

 花娃を求めていると言われた。その求めているものは、花娃の身体なのかと思った。

 初めて身体の関係を持った時、正直痛かった。それから少しずつ慣れて、でも彼がそれだけのために花娃と会っているような気がした。会えばいつもやることは同じこと。そして理人だって、例外ではなさそうな気がした。

「言われたの? ふーん、そう。でもリヒャルトは馬鹿にしてないと思うわよ」

「学費のことを心配してくれるのは嬉しいですが、学費の心配がなくなるから結婚だなんて、出来ません。それに、その考え間違ってるし。本当に私が欲しいと思っているのだったら、もっと何かあってもいいと思います」

 理人は前の彼のそれよりも質量が大きくて、痛かった。けれど慣れは怖いもので、痛いけれど、二度目からはそれも薄れて三度目は酷く感じた。理人の作り物のような人形のような顔をみて、それが人間らしくて。花娃の身体で理人の顔が上気して、感じているような声を出すのが、とてもよかった。

「留学すると苦しくなるわよ? もちろん先日話した通り、奨学金は出るわ。けれど向こうでの生活が出来る? きちんと勉強できるの? 先立つものがないと、困るわ」

「前の大学の時から少し貯めているし、しばらくは大丈夫だと思います」

 相良はため息をついて花娃を見る。

「彼が嫌い? もしくは、そういうことをしてほしくないのかしらね?」

「してほしくないのと、話が飛躍しすぎです。私は顔は普通だし、勉強は確かに好きで、成績は良いと思います。でも、そのどこに篠宮さんがそう思うのか、疑問です。欲しいものは手に入れる、なんて……私は人だから、ものではないです。それに、単なる苦学生。結婚とかそういうものをしている暇があったら、勉強をしていないと置いていかれるから」

 相良は頬杖をついて、花娃の話を聞いた。

 相良何を思っているのかよくわからないが、もし相良が留学を押してくれたら、花娃は留学が出来るだろう。そして、理人とは離れることが出来る。結婚をすれば、好きな勉強がずっと出来るだろう、と言った理人。確かにそうだが、無神経にしか思えない。まだ花娃は二十二歳。第一、勉強をしたいと言った娘がそうやって結婚すると言ったら、両親から勘当されるような気がする。

「リヒャルトはどう言うかしらね」

「どう言うも何も、結婚自体間違ってますから。その時の雰囲気で言わないでほしいです、そんなこと」

 花娃が言うと、相良が笑いながら、だから言ったじゃないの、と言った。

「突拍子もないかもしれないけど、それが私やあの子の家系の特徴なの。情熱的で、止まらない。確かに、情熱は危険な時もある。でもね、花娃、彼は真面目な情熱家なの。言うこともやることも、熱くて正論過ぎて嫌になるでしょうね。でも、嘘はつかない」

 相良が鮮やかな唇に笑みを乗せる。

 正論過ぎて頭に来るのは毎度のこと。でも確かに嘘はついていないとは思う。ただ、今回の件は考えていないようにしか思えないのだ。どこがどうして花娃と結婚なんかしたいのか。

「意味がわかりません」

「私も意味がわからないわ。どちらかというと悩むタイプのあなたを、どうしてリヒャルトがって思う。あの子の日本名、理人って、意味知ってる? 花娃」

「……知ってます」

「光あれ、という名前は美しく生まれたあの子に似合っていた。黒い髪の毛に、初めは薄いブルーの目の色をした美しい赤子だったわ。成長とともに目の色が濃いブルーになって、人形のような顔立ちの、姉に似た美しい青年になって。名前と対をなすように、常に前向きで明るくて、興味を持ったものは何でも首を突っ込むような、冒険家にもなった。そんな光ある子が、どうしてあなたのように常に悩みながら歩く子を、って思う時もある。悩みながら成長していくのが、きっとあなたのレールなのだと思うわ。そんなあなたにリヒトの名を持つ子が惹かれたのは、何か意味とかそういうものを超えたものがあるのかもしれない」

 そんなことを熱く語られても、と思いながら、情熱家と言ったそれは嘘ではないのだろう。

「人が躓くのも、苦労するのも、悩むのも、全て神の導きによるものだと思う。人は試されているのだと常に思うわ。だから、きっとリヒャルトもあなたと言う存在を目の前に置かれて、試されているのかもしれない」

「……それこそ意味がわかりません、相良教授。私が篠宮さんの何を試すの?」

「悩みながらも成長したいと願う一人の女性に、惹かれるようになったそれが、よ。人って常に光と闇。一人が明るければ、一人はどこかネガティブな面を持っているもの。光同士でもきっとうまく行くでしょう。でも、光だけじゃ生きていけないものなの」

 言われている意味がよくわからないが、花娃がネガティブとか、闇とか、そう言うものだと認識した。

 確かに理人が光なら、花娃は闇なのかもしれない。

「あなたのことを悪く言っているんじゃないわ、花娃。ただ闇は光から吸収するものが、光は闇から吸収するものがあるのよ。分からなくても、分かる日が来るかもしれない。あなたは優秀だから」

 そうして再度にこりと笑った相良を見て、花娃は俯く。

「いいわよ。留学の件進めましょう。きっとすぐに許可は出るはずよ。田村花娃だから」

 あっさりそう言われて、花娃は顔を上げた。

「しばらくリヒャルトも忙しいみたいだし、話を進めても大丈夫だと思う。何か言われたら私に言って。必要性を説明してあげる。聖カティアには私も講師として行くから、あなたの成長が見れて楽しみだわ」

 そうして立ち上がって、電気ポットのある場所へ行く。

「紅茶をもう一杯いかが?」

 花娃は頷いて、カップを相良に渡した。

 注がれるそれを見ながら、ついこの間まで留学して勉強をするとか、そういうことを考えなかったのに、と思う。なのに今はそれがベストだと思えて、それを努力しようとしていた。

 結婚しようと、理人から言われた時、結婚した理人との生活を想像した。幸せになれるとか、援助をしてもらうからとか、そういうことを考えても、それは無理な話だった。むしろ自分が馬鹿にされているのだけを感じた。本当はそうではないかもしれないが、その時はそう感じたのだ。

 理人から逃げるのか、と言われればそうで、身体の関係まで持ってしまった自分が本当の馬鹿のように思える。そして、確かに彼に惹かれていた自分もいるから、それがどこか悔しくて。

 反芻するのは理人との熱い時間。

 今まで自分がやっていたのは、きっとセックスじゃなかった。

 そう思えるほど、理人とのそれは快かったし、だから悔しい。

 理人が結婚なんて口にしなければ、もっと花娃だって素直に気持ちを受けて、身体だってもっと素直に答えたのに、と考えるから。

 

 

 理人と出会って、すでに一年近く過ぎた。九月に出会って、十月には聖アンティエに行くことを決めた。そして四月に入学して、今はすでに五ヶ月を経過して、季節は夏になっていた。

 留学のことは水面下で進めてもらって一ヶ月。奨学金の申請と、編入試験。それらをパスして、ようやく留学は決まった。アパートを引き払って下宿までさせてもらった市橋夫妻に、それらのことをお祝いしてもらって。

「花娃ちゃん、一人じゃ心配やわ。イギリスなんて、なぁ。気ぃつけんといかんよ」

 英会話のレクチャーは彗にしてもらって、何とか少しは身に着けた。

「そうね。外国は治安が悪いから。一人で歩かないようにしてね」

 彗がそう言って眼鏡を押し上げてから、花娃のグラスにジュースを注いだ。

「ありがとうございます。下宿させてもらった上に、こんなことしてもらうなんて」

「いいのよ。部屋を綺麗にしてもらってるしね。それよりも、篠宮理人。最近になってあなたの留学知った様子だから。彼氏なんでしょ?」

 相良が水面下で進めてくれたので、留学の寸前まで理人は知らずにいた。相良が言うにはプライベートで忙しく、論文を書いたりしているから、と理事の仕事は休んでいたらしい。そして、歴史神学の博士号を取得したらしいことを知って、さすがだと思った。

「二ヶ月は会ってないし、どうでしょう」

「そうね、いろいろと忙しかった様子だし。イタリアとかにも行ってたんでしょう? 忙しいことね、本当に」

 彗のそっけない言い方に苦笑して、一緒に住んでわかったのは、彼女は理人が嫌いだということだった。

「そっけないなぁ、彗さんは。なんで理人が嫌いなん? 良い子え?」

「良い子過ぎだし、頭いいからどこか人を小馬鹿にして見えるのよね。そこらへん、市橋君と一緒だわ」

「理人の話やのに、なんで僕を攻撃しはるんやろうね、この人は。なぁ、花娃ちゃん。思わへん?」

 二人の会話はいつもこうだ。彗は口では恒星を攻撃しながらも、本当は心は寄り添っているらしく、その雰囲気が可愛いのだ。結婚したのが遅かったと言う二人は、花娃にとってはベストカップルに見える。

「理人、何も言わんと進めとるから怒っとるやろうね」

「さぁ、どうでしょうね」

 どうでしょう、と言いながら多分そうかもしれないと思う。けれど、別に構わなかった。

 花娃が欲しいと言われて結婚しようと言われて。昔の花娃だったら何もしなくて済むから、即日に首を縦に振っただろう。結婚して下さい、と言ったかもしれない。

 だが、今の花娃には目標があるから、だからそれは受け入れられない。

 金銭的にはちょっと辛いものがあるけれど、でもやっていけるだろうと思う。何しろ勉強をして良い成績だったら、学費は心配しなくて良いのだから。

「頑張りなさいね」

 彗がそう言うのに、花娃は笑顔で答えて、目の前に置かれたジュースを飲んで、食事を口に運ぶ。

 市橋夫妻の話は楽しくて、とても有意義な日をだったと思う。

 出発は三日後。荷物はもうまとめていて、聖カティアに送っている。相良が出世払いと称して、勝手にそれらの荷物の代金を払ってしまった。花娃が貯めていたお金が半分以上飛ぶような、そんな額だったから本当に感謝をした。人から助けられてしか生きていない花娃だから、この日本に帰ってきたらきちんと恩を返さなければ、と思う。

 きちんと、自分の足で立てるようになってから、いろんな人に。

 もちろん理人にも。

 彼がいなかったら、花娃は全てをあきらめていた。内緒で話を進めたことに、謝らなければならないだろうが、それも当り前のこと。

 ただ、今の状態で彼とは結婚できないけれど。

 何かで忙しい理人とは本当に会えず、たまにメールが来るくらい。

 それが寂しいとか、腹立たしいとか思うのは、恋ではないと思いたい。

 ただ、容姿的にも、その性格的にも惹かれているだけだと、そう思うのが妥当だと思われた。

 

 

 空港で荷物を預けて、少し時間があるな、と思いながら時計を見ていると、後ろから腕を引かれた。

 振り向くと理人がいて、やや呼吸が荒い。聖アンティエの制服を着たまま、急いできたのだろう。来るとは思わなかったし、理人以外の見送りはいない。父と母には見送りを断った。きちんと帰って来ることを約束して。

「篠宮さん、来るとは思いませんでした」

「時間がなくて、君とは会えなかったけど。本当はきちんと会って話したかった。なんで話してくれなかったんだ?」

「なんでなんて、篠宮さんが忙しかったんでしょう?」

 理人に話そうと思わなかったわけではない。そうしようとしたら、理人は留守だったり携帯の電源を切っていたり。花娃も忙しかったから、それはしょうがないことだった。

「君に言ったことも、返事を聞いていない」

 結婚のことだと思った。それしかない。

「しませんよ、結婚なんて。だって、結婚したら学費が払ってもらえるからって、そんなバカなことしません」

「それもあるけど、それだけじゃないんだ」

 理人は腕を引いた。そして人気のないエレベーターの下のスペースに行って、花娃の背をそこへ押しつけて、唇を重ねる。深いそれに花娃は息を漏らして声も漏らした。理人の制服の襟をギュッとつかんで、そうした時に唇が離れる。

「君が欲しいと言った」

「私はものじゃないです。だから、留学するんだから。きちんと私のこと、一人の人間として見てない。それなのに結婚とか、付き合いとか出来ませんよ」

「きちんと見てる」

「嘘をつかないでください」

 花娃は理人の胸を押したけど、理人は離れなかった。顔を傾けてもう一度深いキスをされて、理人の舌を口腔内に感じる。もう出発と言う日なのに、こんなことをしている自分が不思議だった。

「嘘なんかついてない。君がずっと傍にいたらと思っただけ。何が悪い? いきなりすぎたのは分かるけど、君を馬鹿にしたわけじゃない。欲しいんだ、君ごと」

 花娃は理人の言葉に赤面した。不覚にも、と言う感じだった。

 初めて会った時も、普通に会っているときも、クールでどこか淡々としていて、花娃をやりこめる言葉ばかり。そんな理人から君ごと欲しい、と言われた。言われたことがないセリフで、なんだって自分はこの人からこんなことを言われるのか、と思う。

 人形のように、作られたような容姿の理人から。

「私は、自分で考えて生きていきたいんです。そのきっかけをくれたのは篠宮さんだけど、だから余計に思うんです。考えを変えたらいろんな人が私にかかわってくれた。篠宮さんの影響もきっと大きいだろうから、きちんと自分の足で立って目線を変えて、成功して見せるから」

 理人の青い目は綺麗な色だった。その目が瞬きをして花娃を見るたびに、隠していたけれどドキドキしていた。ここまで言われて、惹かれない女なんていない。ただ、花娃が平凡な容姿をしているから、余計にこの人には気が引けるのだ。それだけ、理人は光るある美しい人。綺麗過ぎて、傍にいるとドキドキする。

「会いに行ってもいいよね?」

 理人が言うことに、花娃は無言で頷いた。

「でも、あんまり会いに来ないでください。っていうか、他に誰かがいたら、好きに付き合って下さい」

「どうして? 本当に可愛くないことばかり言うね」

「勉強の邪魔です。それに篠宮さん、カッコイイんだから誰かしら寄ってきますよ。男の人なんだから、そっちの方を見るでしょうし」

 花娃の身体を強く押し付けて、服の上から胸を掴まれた。

「痛い」

 掴まれた胸は少し痛かった。その胸を掴まれたまま、理人は花娃の唇を乱暴に奪う。噛みつかれるような、少し足意味を伴うキスと、最後に走った唇の痛み。唇が切れたのがわかったのは、キスに血の味が混じったからだった。

「そんなこと言うと、ここで犯すよ、花娃。君は僕のこと、本当に何も分かってないよね?」

 その目が怒っているのを見て、花娃は瞬きをする。普段は穏やかな目の色が、いつもより暗く映る。

「初めてなんだ、頭脳にも心にも惹かれるのは。ただ好きだからというわけじゃない。好きなだけだったら、キスとセックスで十分事足りる。でも、君とはもっと知識も深めあいたいし、その考え込む心にだって、もっとフォローを入れたい。短い期間で、これだけ思うのは初めてで、なのに君は離れていく。どうやって縛ればいいわけ?」

 怖かった正体は、この情熱なのか何なのか。

「縛りたいの? だったら余計に嫌」

 花娃は縛られたくないと思った。理人は花娃の胸から手を離して、失言だった、と言った。

「僕に、君を援助させて。未来の著名な考古学者に」

「……そんなこと……」

「聖カティアも英才教育を目的としている学校。カリキュラムはアンティエよりきついし、言葉の壁もある。君を潰されたくないから、させて欲しい。その代り、目標が達成したら、きちんと返して。達成できなくても、返してもらうからそのつもりでいるように。応援しているから、必ず目標を達成すること」

 青い目が目線を下げて、大きな手がポケットからロザリオを取り出す。手を取られて、理人の手の上にあるロザリオの上に重ねられた。

「あと連絡先もきちんと教えること。誓って、花娃」

 強い口調で言われることなんてなかった。どこか優しさというか、ゆっくりとした口調で話していたと思う。なのに、こうやって言われると、誓わざるを得ない気がした。

「誓います」

 それに満足したのか、ようやく少しだけ笑みを見せた理人を見て、花娃はその頬に手を伸ばす。

「ありがとうございます」

 少し背伸びをして、理人の唇に軽くキスをした。理人の目に触れて、その青い目が何度も瞬きをする。

「会いに来てもいいけど、エッチはなしですよ」

「もう抱かせないつもり? 酷いな」

「だから言ってるじゃないですか、好きにしてくださいって」

 理人に惹かれるけれど、理人はきっと放っておかれないから。

「もう行きます。ちゃんと連絡先、言いますね」

 簡単に腕を抜けられたと思いながら、花娃は後ろを振り向かなかった。

 理人の傍にいると、きっとだめになるだろうと思い始めたのは今日が初めて。

 噛みつかれるようなキスも、口の中を愛撫するようなキスも、そのすべてに心臓が煩いほど鳴って堪らない。

 理人の手で身体を触れられた時の感覚とか、その声とか。

 思い出すだけでだめになるのを自覚して。

 花娃は後ろを振り向かなかった。理人の傍を離れると決めたのだから。

 

【2013/10/05 04:17】 | Uniform | トラックバック(0) | コメント(0)

Uniform:8

「イタリアの名家、オルシーニ家を知っているな? 理人」

 オルシーニ家は良く知っていた。敬虔なカトリック信者で、資産家。貴族階級でもあり、現在聖アンティエにその子息が高校留学している。

「知っていますが、なにか?」

 父、篠宮理臣は、理人をわざわざ居間に呼んだ。何の話だ、と思っていると、名家であるオルシーニの話だった。理人とオルシーニに何が関係あるのか、と思いながら、確かに寄付金と称して結構な額の金が振り込まれる。もちろんそれは、丁重に返していた。それを貰ったからと言って、特別扱いはしないからという理由と、経営自体上手く回っている聖アンティエだから、その必要は今のところないからだ。

 ただ、どうしても、と送って来る寄付金は後を絶えなくて、最近は一部だけ貰ってあとは返していた。

「アナベラ・オルシーニ。この人も知っているな?」

 アナベラ・オルシーニは二ヶ月近く前に日本へ来ていた。弟に会いに、父母と一緒に来たのだ。その時に挨拶をしたくらいで、特に面識はないが知っている。ブラウンの髪に、同じ色の瞳。笑うとクシャリとなった顔が可愛い、綺麗な顔立ちをした女性。

「知っています」

「彼女がお前のことをとても気に入ったらしい。どうしても会って話をしたい、と言ってきた。年齢は理人より二歳年下だったと思う。社交界にデビューも果たしたお嬢様で、ファッションモデルを時々しているらしいが。態の良い見合いのようなものだ」

「……お断りしてください。そんな気はありません」

「他人行儀な言い方はよせ、理人。会うだけ会ってくれればいい」

「一度だけ会っただけなのに、会わないといけないなんて。意味がわからない」

 理人は足と手を組んで父に言った。父はため息をついて、肩を落とす。かなり遅くに出来た子供だから、父はすでに老人と言える年齢だ。確かに年を取ったと思う。そうやって肩を落とすと余計に。

「マーティン卿リヒャルト・セリンガムとして見ている部分も多いだろう。タイトルを持っているからな」

「ただの世襲なのに? 社交界にも顔を出さない、オルドリッジ卿はすでに忘れられようとしている。向こうの城も処分して、伯爵という身分だって無きに近い。それに僕は子爵として社交界に顔を出したこともない。そんなものを見られても、どうにもならない。いっそ爵位なんて返上したいくらい」

「おいそれと返上はできないだろう、理人」

「あの国は嫌いだ。封建制度が生きている、貴族主義」

 理人が外を向くと、さらに肩を落とした父は、理人を見て、お願いだ、と言った。

「いい顔を向けるのも、仕事のうちと思ってくれ、理人。確かに、大半は日本の学生を占めているが、それだけでは聖アンティエの目的が果たせないだろう?」

 それは良く分かっているけれど、そんなことをしなければならないのは、どうしてだろうと思う。ただ、留学生を迎えるだけなのに、いい顔をして聖アンティエを宣伝しろと言うのか、と。

 思いながらも、それは必要なことだと分かっていて。日本人が大半を占める日本の学校に、新たな考えを入れるのは必要だとも思う。もし、理人がアナベラ・オルシーニと会えば、名家中の名家であるあの家から、また新たな留学生を紹介してもらえるだろうとは思う。

「好きな人がいるから、応えられないけど。それでもいいなら」

 理人が言うと、父は目を丸くした。そして嬉しそうに笑って、理人を見る。

「なに? その顔」

「いやいや、そんなことを聞いたのは初めてだ。今までそういうことを、言ったことがあったか? 好きな子がいるなんて知らなかったよ、理人。どんな子だ?」

 いきなり父親の顔をして、好奇心を出すような顔をして。理人はそれを見て、少し眉を寄せる。言うのではなかったと思ったけれど、言ってしまったあとでは修正できない。

「聖アンティエ大学院生で考古学科」

「名前は?」

 名前まで言うのか、と思いながら理人は父を見る。

「知ってどうするの?」

「調べるに決まってるじゃないか」

 もちろん! と、強い口調で言って、さっきまで肩を落としていたと言うのに、今はきちんと上がっている。

Ein liebender Elternteil.」(親バカ)

 ため息交じりに言って、足を組みかえると、当たり前だ、と言われた。

「名前まで教えないよ。学科も言ったんだし、調べようと思えば調べられる」

「調べられないだろう? 沢山いるんだし」

「別にいいと思う、調べなくても」

 好きな人だと、そう認識したのはごく最近のこと。

 以前に付き合っていた、というよりも身体の関係だけ持っていたような、国重恵美とは感情のベクトルが違う。

 好きだから恵美とも身体を重ねていたけれど。

「お母さん似で、優しい綺麗な顔立ちなのに、どうしてそう、そっけなく育ったんだかね、お前は」

「顔と性格は関係ないよ。この顔で苦労もしてるんだ。どうせなら、もっと男らしい顔に生まれたかったよ」

 顔が綺麗だから、という理由で得をすることもあるけれど、警戒心なんか抱かせないような、そんな顔。市橋恒星からは、人形のようだと言われて久しい。

 キスをしても、関係は変わらず、好きだと認識したその人は、相変わらず勉強のことばかり話す。そして、いつまでも考えに考え込んで、そして自分から外へ出られないようにしていく。

 意味がわからない、としか言いようがない、その考え。優秀な頭脳を持ったその人は、現在もドツボに嵌まって動けなくなってきている。何がそうさせるのか、と思いながら、考えすぎなのだと思う。もう少し前向きに考えることが出来たのなら、もっと集中していろんなことが出来るだろうに。

 おまけに頑固で、意外と融通が利かない。初めは結婚して何もせずに暮らしたいと言っていて、その考えもしばらく譲らなかった。知識が欲しい癖に、いつも意味がわからないことを言う。

 宇宙物理学で有名な市橋夫妻が聖アンティエに来てくれることになり、優秀な生徒を探していた。だから理人は一人推薦したのだ。考古学科の田村花娃を。成績を見て、そのディベートの様子を見て、経済的援助を申し出てくれたのに、最近になってそれを断ったらしい。親とうまく行っていなくて、経済的な援助を打ち切られたと言うのに、その余裕はなんだ、と思う。

 奨学金だけでは、もちろん勉強が出来るはずもない。特に聖アンティエのカリキュラムは上へ上がるのが難しい。それも、英才教育を、という名目なのだからしょうがないのだ。だから、アルバイトなどしている暇があったら、勉強をしていなくては置いていかれる。そういう風に決めたのは理人と父の理臣、そして姉の杏朱だ。

「考古学で優秀か。野絵留に聞けば分かるかな?」

「だから、どうして知りたいの? 息子の恋愛に干渉したいわけ?」

「二十六年間で初めてそういうことを聞いたから。私の家系も、聖子の家系も、情熱的だからね。ま、見た目通り清廉でいることはないと思っているが。自分の頭にカリキュラムが合わないからって、学校作ってくれとか、そういうところもさすが私の息子だな、と思うよ。敬虔な、とは言い難いかもしれないカトリック教徒の私だから。リアリストな息子の恋路には興味がある」

 確かに離婚歴があって、二回目で杏朱と理人の母と結婚した。だいたい、五十歳を過ぎて理人が生まれたこと自体、情熱的というか、考えなしというか。姉といくつ年が離れているのか、と思う。

「確かに見た目通り、清廉でなくて申し訳ないね、父さん。興味があったら試す性質なんだ」

 それに驚くまでもなく、ただ面白そうに笑う父を見る。

「田村花娃、二十二歳。満足?」

 そう言って立ち上がると、理人、と呼ばれる。まだ何かあるのか、と思いながら父を見ると、父はにこりと笑った。

「彼女とは深い関係か? オルシーニは縁談相手として見てるから、参考までに。もしかして、一人生徒を下宿させてもいいか、と聞いた人と同一人物?」

 ここまで聞いてくる親なんかきっといないのではないかと思う。理人は、言わなかったらずっと聞かれるのを承知していたから、口を開く。

「会えば勉強の話ばかり。会う場所は常に図書館。常に辞書を開いている彼女と、どうやってそういう風になるのか、僕が知りたい」

 さも可笑しいように笑った父に、理人は今度こそ背を向けて自室へ向かおうとした。

「理人! オルシーニとの時間は調整して知らせるからな!」

 それに手を振ってこたえて、居間を出て階段を上る。

 縁談相手として見られているのには、不快だった。貴族階級は面倒な人ばかりで、その特権階級のせいか、どこか偉そうで嫌いだった。

 けれど、理人の立場上、そう見られるのもしょうがないことで、だから余計に不快感が募る。結婚なんて、そんな人としたくはない。自分は自分の好きな人とと思っているから。

 好きだと認識した田村花娃は、論文にもその考え方にも惹かれた。性格的には全く可愛くないのに、キスをすると顔を赤くして、大きな目が濡れたように理人を見る。そのギャップが理人にとって、堪らなく良かった。頑固で言うことを聞かない花娃が、理人とキスをするだけでそうなるのだから。

「今度は勉強の話になんか、付き合ってやらない」

 そうして理人はパソコンの画面を開く。

 大変な仕事と、大変な論文の作成。大変だと思うけれど、これが理人の考えたレールだから。

 大変だとは言っていられなかった。

 ただし、面倒なことは面倒で、オルシーニのことを考えると、ため息しか出なかった。

 

 

 援助を断ったことを聞いたら、花娃は顔をうつむけた。相変わらず教科書や辞書を机の上に並べているのを見て、理人は自分の鞄を隣にある椅子において、目の前に座る。

 援助を断った理由を聞くと、特別扱いは嫌だと言った。確かにそうだろうが、どこか不器用な花娃に勉強とアルバイトを掛け持ち出来るのか、と思った。絶対にできない、そう思ったから市橋夫妻に推薦したのに。

 自分の親ともキチンと話した、と言ったのには感心したが、けれど自ら苦学生になるとは、と思う。せっかく少しでも楽に、と思ったのに、花娃には理人の心は通じない。

「特別扱いをしたかったんだけど」

 理人が言うと花娃は視線をずらした。ペンを握るその手は止まっていて、勉強をするとかそういう意識はどこかに行っている様子だった。だから、試験勉強はと聞いたら、きっと、と答えた。A以下はとりたくないから、と。

A以下を取ったら、許さないよ」

 理人がそう言うと、顔を上げた。A以下を取ったら、奨学金も危うくなってくる。だが何より、何もかも自分でというのならそれくらい当たり前に取ってほしいと思った。特別扱いなんてしてほしくない、というのなら。

「ドクター市橋の好意を断って、僕の好意も断った。ちなみに聞くけど、君は博士号をいったいどれくらいで取るつもり? 博士号は最初のステップだとするなら、まずそのゴールの目標は?」

 多少意地悪な言い方をしたが、花娃が頑固に理人を拒んでいる気がしていたから、思わず言ってしまった。それでも後悔がないのは正直な気持ちだから。

「二年以内に、出来れば」

 出来れば、という言葉に内心ため息をつく。

「アルバイトをしながら? 出来るかな、本当に」

「篠宮さんも、かけ持ちをしていたんじゃないですか? この学校の経営と、勉強を」

 今も進行中でそうしている。けれど、それはある程度助けてくれる姉の存在もあるからだ。後は自分の要領とか、そういうものでカバーしている。

「ここでは相良、だよ、花娃。僕は自分で言うのもなんだが、要領がいい。でも君は違う。すぐに熱くなるし、他のことが見えなくなる。アルバイトと勉強のかけもちが出来るとは思えない」

「出来たらどうするんですか?」

 挑むようにそう言われて、理人は小さくため息をついた。

「やってみたらいい。大変だから」

 自分で言って、納得すること。経営と勉強の両立は意外と大変で。しかもカリキュラム自体が、勉強をおろそかにすると上に行けないのだ。そうしたのは理人でもあるから、泣き言は言えない。

「大変って、思ったことあるんですか?」

「大変だよ。いつも、常に」

「でも、スピードが速いじゃないですか。二つ目ですよ、博士号」

「自分の学校から、未来を担う学者を出すのに、止まっていられないから。僕は単なる模範生。後に続くのは、未来の科学賞や文学賞を担う学生たち。相良理人がこれだけやった。じゃあ自分はもっとやって見せる。そんな学生が出てくることを祈るだけ。大変だけど、止まれない。僕の理想をかなえてくれた父のためにもね」

 干渉をしてくる父だが、そこは素晴らしい手腕を持っている。父がいなかったら理人はここにいないし、聖アンティエ自体、ここに存在しないのだ。だから、理人は周囲に見せる必要がある。いずれ篠宮理人だと分かる日が来るのだし、贔屓されていたとは思われたくはないから。

「君は目指す学問が違っても、そういうところを見せる学生だと思っていた。でも、違う? 君は考古学者になって、それを職業として行くのではなかった?」

「私は、きちんと目指します。要領が悪くても、きちんとゴールします。でも、スピードまで約束はできません」

「君が援助を断るからだ」

 理人は思わず笑った。良かれと思ったことは全て却下なんて、本当に可愛くない。

「だって、そんなことしてもらう謂われはないでしょう? 彼女と言ったって、形だけ。何をするわけでもないでしょう? 相良さんは、ただ私の頭が欲しいだけなんだ。きっとそう。でもどうにもならないこともあるんです。私だって学びたい。今は本当に勉強がしたい。彼氏から援助とか、補助をされても、後から何も返せなかったらどうするの? 私は、そういうのも嫌だし、自分の力で立って見せて、両親も見返したいんです」

 言っていることが上手くまとまっていない。こんなところは論文にも出ていて、少しは直ってきているけれど、まだまだ、という感じだ。それに、形だけ、という言葉に理人は引っかかった。

「とにかく、こんな状態で付き合いなんてできないし。別れると言うほど何かしたわけじゃないけど、今までありがとうございました。感謝してます」

 そう言って、花娃は教科書をまとめる。それを見て、心の中で普通に苛ついた。確かに何もしていないし、手を出したと言ったって、キスだけで。別れると言うほど何かしたわけじゃないだろう。けれど、そんな気は全くないのに、一方的に言われては良い気分じゃない。

「さっさと手を出せばよかった? 君が言っているのはそういうこと?」

 一応、笑みを浮かべて花娃を見る。今まで、そんな風にさせなかったのはどこのどいつだ、と心の中で呟いた。

「君を求めてると言ったじゃないか。なのにそっけない態度を取るのは君だろう?」

「そんなこと、ありません」

 そんなことある癖に。

「よく言う。手を出しても文句は言わないなら、今すぐ出すよ?勉強のこととか、これからのこととか。そういうことばかりしか話さない君を、待つのはよそう」

 椅子ごと後ずさるのを見て、理人は立ち上がった。花娃の傍に行き、その腕をつかむ。

「ここは、図書館です」

「だから?」

 理人と花娃以外に誰もいないのに、問題があるのか。

 花娃の細い首を撫でて、耳の後ろを撫でる。花娃は撫でるのと反対に首をそらして、外を向く。

「ここで、何をするんですか? 図書館です」

 外を向いていた顔を理人に向けてそう言った。だからなんだ、という前に、理人は膝をついて目線を合わせる。髪の毛に手を埋めて、少し顔を傾けてから花娃の唇を奪う。柔らかな感触を何度も味わって、唇を離した。

 花娃の耳元に唇を寄せて、そこにキスをしてから直接声を吹き込む。

「図書館が嫌なら、僕の家に来る?」

 音を立ててキスをもう一度して、花娃と視線を合わせた。瞬きもせずそれを見る花娃の黒い目は、躊躇いながらもトロリとしていた。たかがキス一つで、こうなる花娃が可愛いと思う。

「……はい」

 返事をしたその声はどこか緩慢な様子だった。その答え方にも満足して、理人はテーブル越しに自分の鞄を椅子の上から取った。そうして、花娃の鞄を持って、手を差し伸べる。

 一度理人を見てから、その手の上に一回り以上小さな手が乗せられて、その手を引いた。花娃は立ち上がって、反対の手を理人に差し出す。

「鞄、持ちます」

 自分の鞄を理人から受け取ったのをみて、理人はその手を強く引いた。

 花娃は司書がいるカウンターの前を通り過ぎる時、特に顔を伏せたが、それも可愛いと思った。

 別に知られても構わないし、ほぼ知られているような花娃との関係なのに。

 理人はこれからすることを想像して、花娃の制服を見る。

 何度も想像した花娃の制服の下の身体。

 脱がせたらどうなるのか、この頑固で言うことを聞かない人が、と頭の中で想像した。

 

 

 携帯電話の着信音が聞こえるのを感じて、理人は目を開けた。抱き枕のように、抱き寄せていた身体の背を撫でて、ゆっくりと起き上がる。頭を乗せていた腕を抜き取って、寝入っているのを確認した。

 外は暗くなっていて、壁にかけてある時計を、眼鏡を身に着けて見ると、すでに午後八時になろうとしていた。手に当たって音を立てたのは、避妊具のパッケージ。避妊は全くしたことがないわけではない。一度か二度ほど、避妊をしたことがある。カトリックでは禁止されていること。恵美と付き合っていた時は、彼女は薬を飲んでいた。

 初めて購入して、花娃に気を使う自分がどこか変だと思った。敬虔中の敬虔なカトリック教徒が今の理人を見たら、きっと糾弾するに違いない。

 脱ぎ捨てていた制服を拾って、それを身に着けて、花娃の制服をハンガーに掛ける。物音がしても起きない花娃は、きっと理人との行為に疲れたのだろう。久しぶりの好意と、普段の花娃のギャップに煽られて、三回くらいはしたはずだと思う。

 そうして服を身に着けて靴を履いて、ドアの向こうに行くと、父が立っていた。

 父を見てため息をついて、なんでここにいるのか、と思う。そうして思い出したのは、オルシーニの令嬢との約束の日が今日だったこと。不覚にも忘れていたことを思い出して、理人は父の言葉を待つ。

「病気で行けなかった、ということにしておいた。約束を破るなんて、珍しいこともあるもんだな」

 父は一人掛けのソファーに座って、理人も対面したソファーに座るよう、手で示す。それに首を振って、寝室に続くドアに背を預けた。

「すみませんでした」

「素直に謝るのは結構だよ、理人。でも約束は破ってはいけないだろう。何をしていた?」

 父は理人が誰と帰って来たのかきっと分かっているはずだろう。篠宮家に手伝いとして来ている、香川夫妻の、その妻に聞いたはずだ。

「聞きたいの?」

 ため息をついて腕を組んで。嫌そうにそう言ったのに、父は少し厳しい目でこちらを見る。

「一応ね」

「セックス」

 理人が言うと、まったく、と言って父は呆れた顔を向ける。

「だから聞きたいのか、って言った」

「女の子を連れて帰って来たとかいうから、予感はあったけど。家でするとは思わなかったな」

「他にどこで? 制服着て、ラブホテル?」

「そんなことを言ってるんじゃない。まぁ、いい。篠宮家の人間らしくなってきたな、理人」

 だからなんだ、と思いながら父から視線を外す。

「理人にそんなことをさせる女の子がいて、嬉しいと言ってるんだ。だけど、約束を破ったこととは違う。一度は会ってもらうからな、オルシーニの娘とは」

「わかった」

「今度破ったら、面目も立たない」

「分かったと言ってる。きちんと会うよ。今日はすみませんでした」

 父は頷いて立ち上がって、にこりと笑って理人を見る。

「田村花娃のことを野絵留から聞いたよ。あの野絵留が褒めていた。よっぽど優秀なんだな」

「そうだね」

「一緒にいて、刺激されるか?」

「いろいろと。一緒にいると飽きない」

 そうか、と言って父は部屋を出ていく。ようやく出て言ってくれた、と思いながら理人は寝室の扉を開けた。

 花娃はまだ眠っていて、それを見て笑みを浮かべる。

 柔らかい身体で、可愛い声を出して、理人を楽しませてくれた。何度もしたいと思ったのは、本当に久しぶりだったし、我慢をしていたのだと思った。

「花娃」

 身体を揺さぶると、二重瞼のクルリとした目が理人を見る。小さく息を吐いて、瞬きをして、身体を起こした。

「良いことを思いついた」

 花娃は半分寝ているようなクリアではない表情で理人を見る。

「君が僕の特別になればいいんじゃないかな? そうすれば、勉強だって好きに出来る」

「……なに? 意味がわかりませんけど?」

「結婚しない? 花娃さん」

 は? と言った顔は、完全に目が覚めていた。理人の顔をじっと見て、何を言っているのか、という風に笑う。

「何を言ってるんですか、いきなり」

「君にきちんと勉強をしてほしいから。そうしたら学費の心配も、これからの心配もなくなる」

 もし花娃が理人と結婚したら、篠宮家の人間になるから。だから、何も心配はいらなくなる。そして、自由に勉強だってなんだってできると思う。

「断るなんて、してほしくないからね」

 そう言って花娃にキスをして、その身体を倒す。

 何度もしたのに、もう一度したくなった自分の身体を省みる。

 初めての相手に、こんなに何度も挑むのは初めてで。そんなことをしたことがない理人だから、違う自分を見れたことに感謝した。

 花娃という、優秀な頭脳を持つ存在に。

 

 

【2013/10/05 04:04】 | Uniform | トラックバック(0) | コメント(0)

Uniform:7

「なんでや? 僕らの援助辞退したい、て」

 父から仕送りを止めると言われて、確かに甘えていた自分がいたことを認識して。そして、援助を申し出てくれたその人たちに、自分の考えを言うために会っていた。

「自分が、甘えていたと思って。父達の気持ちも分かるんです。今まで、大学だって行くには行ったけど、何も考えてなかったから。それを両親は知っているし、それでも行かせてくれたから。今更大学院、って言われても、いい顔をしないのは分かってました。どうにか行かせてもらっていたけど、私の目標が大きいから叶わない、って言われて」

 努力を、と言われた言葉が胸に響いた。何度も考えた。こんなに恵まれて、勉強をしてもいいだろうけれど、その努力がおろそかにならないだろうか、と。何より、こんなに恵まれた学生はいないだろう。それも、あの人と出会ったおかげだと思う。

「今までしてきた行いが悪かったんだと思うから。すごくたくさんのお金を援助していただけるようですけど、それは辞退します。アルバイトとか増やして何とかやります。幸い奨学生ですから、学費は心配いりませんし。学生寮も、あいているようだから、そこに入ります」

 目の前の人はため息をついた。

「そこまで考えてるんやったら、なんも言えんけど。せっかく理人が話持ってきてくれたんやけど」

 努力を、と言った篠宮理人。ハーフで頭もよくて、容姿も綺麗。ハーフだけあって、腰の位置が高く、聖アンティエの制服がよく似合う。

「せっかく考えたのになぁ。なぁ、彗さん」

 そうね、と答える眼鏡をかけた美人は、市橋彗。天文物理学ではかなり著名人。

「しょうがないと思う。田村さんはきちんと考えているんだから、市橋君や私が何か言っても、譲らないと思う」

「そうやな。君みたいな頑固さんやわ」

 市橋君、と呼ぶ辺りが可愛いと思う。市橋恒星も天文物理学では名の知れた科学者。世界に知れている市橋恒星の名は学生で違う分野なのに知っているくらい。

「でもな、花娃ちゃん。寮は門限あるで? そんなんでアルバイトできるんかいな。それに、勉強も遅れてまうよ?」

 図星を刺されて確かにそうだけど、と思う。けれどやり方あるはずだから、と大丈夫ですと言った。

「大丈夫とは思えないわ。……私たちの家に住みなさい。部屋は余ってるから。市橋君が大きな家を買ったせいで、掃除も大変だし。掃除のアルバイト代出してもいいから」

 また助けられるような、そんな申し出。

 この前まで世をすねていた花娃に、どうしてこんなラッキーなことが起きるのか。よほど恵まれているに違いないと思う。本のこの前まで、何もしたくなかった花娃なのに。

 理人からも言われた、自分の家に住めばいいと。大きな家だから、部屋は余っているから、と。

 理人の家に住むよりも、市橋夫妻の家に住む方がいいと思う。

「彼氏からも言われとるんやで、こっちに住め、て。なぁ、花娃ちゃん」

 彼氏と言われて、なんで知ってるんだと思う。理人が話したのかも知れないが、そんなに通じ合っているのか、と。

「篠宮さんは、彼氏らしくない彼氏ですけど。だから、一緒の家になんて、住めませんから」

「ほーら、なぁ、彗さん。彼氏やんか、理人。おかしい思ったよ、援助をしはるんならこの学生、ってえらい押すし。あのディベート見たら、好きな子としか思えへんで?」

 え? と心の中で呟いて、目を見開く。

「市橋君と一緒よね。気に入った相手は、相手の才能を引き出すまで言い続ける。性格悪い」

「なんや、彗さん。理人は僕より冷たいで。そりゃあ、コテンパンやったもの。あんなんが彼氏やったら苦労するわ。顔もええし、カッコええし。なにより、頭がよう出来とるし」

 カマをかけられただけだったのか。そう思うと、もう何も言えなくなる。

「でも理人、綺麗過ぎてお人形さんみたいやなぁ。あんなんがエッチする姿、想像できへんわ」

 ははは、と笑う恒星に、花娃は顔を赤くして俯く。

 花娃だって想像できるはずもない。確かにお人形と言うのは言いえて妙で、理人からはそういう匂いがしないから。

「市橋君、下品よ! もう、ごめんなさいね、田村さん」

 バシッと頭を叩かれて、痛いなぁ、と言った恒星に花娃は苦笑いを浮かべる。

 そんなところまで行ってませんけれども、と思いながら、市橋夫妻のとこに下宿を考えた。

 本当にしてもいいなら、とまた甘い考えを持ち始めるけれど。

「田村さん、努力は環境を整えてこそよ。もしウチに来る気があるなら歓迎する。あと、最後に確認だけど、金銭的な援助はいいのね?」

「はい。ありがとうございます。下宿させていただいてもいいのなら、前向きに考えます」

 援助を断って、けれど住んでもいいと言う申し出はかなり魅力的で。

 それに学問と言う分野で身を立てている二人の傍は、きっと自分にも刺激になると思われた。

 いろいろと動いてくれた理人には悪いけれど、自分で考えて自分で出した答えだから。

 きちんと理人と話さなければ、と思う。

 今の理人との関係も、全部。

 

 

「市橋夫妻の援助を断ったそうだね」

 いつもの場所、第二図書室の二階、奥にあるテーブル。その上に学校指定の重い学生鞄を置いて、花娃が教科書や辞書を広げる席の前に座る。

「下宿をさせていただく点は、断りませんでした。父と母ともキチンと話して、頑張るという名目で大学院に行くのを了承してくれたし。両親からの援助はないけれど、それは私が悪いから」

 テーブルの上に置いたバッグを自身の隣の席において、そして花娃を見る。

「僕の家は嫌だった?」

「そういうわけじゃないんです。良くしてもらって、本当に嬉しかったけど。学校に入る時も、そして学校に通うのに困難になりそうな時も助けてもらって。こんなことされることだって、特別過ぎて」

 理人は理事だと言った。その理事である彼の家にと言うのは、どう考えても特別扱いだ。

「特別扱いをしたかったんだけど」

 そうしてじっと見られて、花娃は視線を外す。

「試験は大丈夫そう?」

「はい、きっと。A以下はとりたくないから」

A以下を取ったら、許さないよ」

 理人の言葉に顔を上げた。理人は笑みを浮かべて花娃を見る。

「ドクター市橋の好意を断って、僕の行為も断った。ちなみに聞くけど、君は博士号をいったいどれくらいで取るつもり? 博士号は最初のステップだとするなら、まずそのゴールの目標は?」

 あ、と心の中で呟く。ただ勉強するだけではだめなのは分かっている。きちんと単位もとらないとだめで、もちろん最終的には博士号を取るために努力をする。

「二年以内に、出来れば」

「アルバイトをしながら? 出来るかな、本当に」

「篠宮さんも、かけ持ちをしていたんじゃないですか? この学校の経営と、勉強を」

 理人だって、経営にかかわっていると言った。それは仕事をしながら勉強していたことになる。そしてパソコンを操作して、この図書室で仕事をしているときだってあるのだ。

「ここでは相良、だよ、花娃。僕は自分で言うのもなんだが、要領がいい。でも君は違う。すぐに熱くなるし、他のことが見えなくなる。アルバイトと勉強のかけもちが出来るとは思えない」

「出来たらどうするんですか?」

 小さくため息をついた理人は、相変わらず笑みを浮かべたままだ。

 確かに要領がいいのだろう。文学で博士号を取って、そして今は神学を学んでいる。その神学の博士号も、取るのは時間の問題だと言われているのも知っている。そうしてら今後理人はどうするのか。それさえ花娃は知らない。こんなもので、付き合っていると言えるのだろうか、と思う。

「やってみたらいい。大変だから」

 大変、と言う言葉を聞いて花娃は首を傾げる。

「大変って、思ったことあるんですか?」

 そんな素振りなんて全く見せない、綺麗な形の青い目。いつも涼しそうに何ごともこなして、花娃のレポートもきちんと読み砕いて。そんなこの人が大変だなんて、と花娃は思う。

「大変だよ。いつも、常に」

「でも、スピードが速いじゃないですか。二つ目ですよ、博士号」

「自分の学校から、未来を担う学者を出すのに、止まっていられないから。僕は単なる模範生。後に続くのは、未来の科学賞や文学賞を担う学生たち。相良理人がこれだけやった。じゃあ自分はもっとやって見せる。そんな学生が出てくることを祈るだけ。大変だけど、止まれない。僕の理想をかなえてくれた父のためにもね」

 そうして言葉を止めてから、花娃を見て、大きくため息をついて。

「君は目指す学問が違っても、そういうところを見せる学生だと思っていた。でも、違う? 君は考古学者になって、それを職業として行くのではなかった?」

 確かにそうだけれど、と思いながらそれでも環境は整わない。理人はそうしてほしいからきっと花娃の周りを整えようとした。でも、理人は他人だから。そういうことは、甘えられない。

「私は、きちんと目指します。要領が悪くても、きちんとゴールします。でも、スピードまで約束はできません」

「君が援助を断るからだ」

「だって、そんなことしてもらう謂われはないでしょう? 彼女と言ったって、形だけ。何をするわけでもないでしょう? 相良さんは、ただ私の頭が欲しいだけなんだ。きっとそう。でもどうにもならないこともあるんです。私だって学びたい。今は本当に勉強がしたい。彼氏から援助とか、補助をされても、後から何も返せなかったらどうするの? 私は、そういうのも嫌だし、自分の力で立って見せて、両親も見返したいんです」

 言っていることが重複しているうえに、支離滅裂のような気がする。

 花娃だって頑張りたいと思う。けれど金銭面はどうにも解決策はないだろう。大学まで出してくれたから、大学院に行ける。両親に感謝もしている。見返したい気持ちもあるが、そうして自分の足で立つ花娃も見て欲しいのだ。

「とにかく、こんな状態で付き合いなんてできないし。別れると言うほど何かしたわけじゃないけど、今までありがとうございました。感謝してます」

 花娃は教科書をまとめた。辞書もまとめて、バッグに入れながら前の席に座った理人を意識する。一方的に言って、理人に失礼だと思う。でも、少しは間違っていないと思うから。

「さっさと手を出せばよかった? 君が言っているのはそういうこと?」

 教科書を片付ける手を止めて、理人を見る。理人はその視線を受け止めて、にこりと笑った。

「君を求めてると言ったじゃないか。なのにそっけない態度を取るのは君だろう?」

「そんなこと、ありません」

 自分で言って、そんなことがあるのは知っていたけれど。でも、全面的に拒否したわけではない。キスは許した。抱きしめるのだって許してる。

「よく言う。手を出しても文句は言わないなら、今すぐ出すよ?」

 花娃は椅子ごと後ずさった。その様子を見て、一度瞬きをした青い目は、花娃をじっと見る。

「勉強のこととか、これからのこととか。そういうことばかりしか話さない君を、待つのはよそう」

 そうして立ち上がる理人を見て、こちらに向かってくるのを見る。何をするのか、とかそういうことを考えていて、けれどだいたい分かって、椅子を立とうとしたけれど。腕を掴まれてはどうにもできなくて。

「ここは、図書館です」

「だから?」

 首を撫でられて、耳の後ろも同じようにされる。花娃は首をそらした。

「ここで、何をするんですか? 図書館です」

 もう一度同じことを言うと、理人はゆっくりと瞬きをした。長い睫毛の青い目は、花娃と視線を合わせるようにして、目線が低くなる。そうして、もう片方の手は髪の毛に手を入れて花娃の顔を寄せる。顔を傾けて、花娃の唇を挟むようにしてキスをされる。

 唇を離して、花娃の耳元に唇を寄せて、そこにキスをしながら理人が口を開く。

「図書館が嫌なら、僕の家に来る?」

 間近で見られて、花娃はその青い目が美しいと思った。空より濃い色の、青色の眼が花娃を見るから。

「……はい」

 心のどこかでこの人はきっと花娃には手を出さない人だと思ってた。カトリックだと言った、この人形のように作られたような人が、花娃の身体を抱くなんてありえない、と。

 でも、今はそうしようとしていて、けれどそれがどこか嘘のように思える。

 理人は笑みを浮かべて、手を伸ばして自分の学生鞄を持った。背が高いから、リーチが長いのだ。そうして花娃の学生鞄をもって、手を差し伸べる。

 この手を取ったら、と思う。

 そうしたらいったいどうなるのか。

 大きな手の上に花娃はその手を乗せて、椅子を立ち上がる。

「鞄、持ちます」

 自分の鞄を理人から受け取って、そのまま手を引かれる。

 司書のいるカウンターの前を通って、その司書からつないでいる手を見られる。

 やけにじっと見るので、花娃は顔を伏せた。

 

 

 徒歩で帰れると言った理人の家は、歩いて十分くらいだった。

 やや古い洋風の家で、どこか重厚な感じがする家。

 手を離して、同じく重厚な門を開けると、その中にためらいもなく入っていく。大きな家だと思いながら見上げていると、理人がその手をまた引いて歩く。

「大きな家ですね」

「祖父の時代からある古い家だから。僕が知っている限りでも何度かリフォームしたよ」

 そうして大きな扉のような玄関を開けると、どこはいかにも洋館と言う感じで。こんな家には行ったことがない花娃は、辺りを見回す。おいてある家具も何もかも重厚感のあるもの。

「お帰りなさい、理人さん」

 そう言って奥から出て来たのはいかにもお手伝いという感じの、壮年の女性。

「こんにちは」

 花娃は失礼の内容にあいさつした。同じように挨拶を返されて、女性は理人を見る。

「お部屋にお茶でも?」

「いいです。ありがとう」

 そう言って断ると、階段に向かって歩いてそこを上る。

 広い廊下に三つ部屋があって、その部屋の一つの部屋のドアを開いた。

 中に入ると壁側に大きな本棚と机が目に入って、反対の壁にはピアノが置いてある。花娃の手を離して、学生鞄を花娃の手から奪う。自分の鞄と一緒に机の上に置いて、ピアノの隣にあるドアを開ける。

 そこはベッドルームになっていた。ベッドの前まで手を引かれて、その傍に立つ。

「あの……?」

 それを見ると心許ない気持ちになって理人を見る。

 理人はそんな花娃の身体を抱き寄せて、キスをした。このままするのか、と思いながら繰り返し啄ばむようなキスを受ける。そして深く唇を重ねた時、自然に小さく声が漏れた。

「このまま?」

 唇を離したときにそう言うと、理人はかすかに笑って答えた。

「君の制服を脱がしてみたかった」

 そうして花娃のリボンタイを解くと、襟から衣擦れの音を立てながらタイが引き抜かれる。少し身体を押されて、ベッドの上に腰がついた。ベッドの上に膝をついて、上から花娃を見る。

「制服を脱がすの、好きなんですか?」

 花娃が言うと、理人は苦笑して、まさか、と言った。

「君の制服の中身を想像していたから、そうしたいだけだ」

 聖アンティエのいかにも硬そうな制服の上着のボタンを外される。上着を脱がされて、中のベストのボタンを開けられる。そうしてブラウスに手をかけながら、身体を軽く押される。それだけで、ベッドに背がついて、その上に理人の顔があった。ネクタイを解く手を見て、上着のボタンを外すのを見て。

「制服って、エロいですね」

「見ようによっては、確かにね」

 笑みを浮かべてそう言って、理人の顔が花娃の首に埋まる。

 久しぶりに吐いた重い息は、花娃も想像がつかないくらい甘い吐息だった。

 制服の布の感触を感じて、それが擦れる音を聞いて。

 これからすることを想像すると、酷く心臓が高鳴ってうるさい。

 初めてしたときに、こんな風に心臓が鳴ったかもしれない。けれど、今はその比ではない気がした。

 いかにも品の良い制服を脱ぐそれと、理人の整った顔がどうしてもセクシャルでしょうがない。

 服を脱がされながら、身体に触れられて。

 こんな人が花娃の身体を抱くなんて、とどこか客観的に見ていた。

 けれど、そういう風に見れたのはつかの間のこと。すぐにそんな余裕はなくなってしまった。

【2013/10/05 03:54】 | Uniform | トラックバック(0) | コメント(0)

Uniform:6

 大学院に入って最初の夏休み。花娃は発掘調査に行くことになっていた。けれど、それは思った場所と全く違う場所で、花娃はそこへ行く一週間前まで、何も知らされなかった。

「先生、国内って言ったのに」

「なによ、不満なの? 花娃」

 花娃のことを名前で呼ぶようになって結構日もたつが、何となく慣れない。生徒と先生という時は名字で呼ぶのだが、どうしてか二人の時やプライベートの時は花娃と呼ぶようになった。

「経費で来てるからいいじゃない。渡航費は往復タダでしょう?」

「ですけど、私、貧乏学生なんですけど」

「それは暗に、バイト代増やせっての? いやね、この子は。寮に住みなさい。アンティエの寮は月に二万円よ。光熱費、水道代込み。ちなみに院生は一人部屋」

 ずっとそう言われていて、溜息をつきながら、暑い日差しを見る。

「それにしても、暑いですね」

「エジプトだもの、そりゃ暑いでしょ」

「初めて来たんですよ。外国なんてこれが最初だし」

「だったらこの暑さ、慣れなさい。そのうちあなたも研究で来るんだから」

 そのうち、と言われて、本当にそうなるかどうかも保証がないのに、と思いながらもう一度ため息をつく。

「鬱陶しいわ、この暑さでため息なんかつかないでよ」

「すみません。これからのことを考えると、ちょっと気が重くて」

 花娃が言うと、相良は首を傾げた。

「何よ、何か問題でもあるの?」

「父が入院したのをきっかけに、仕送りを止める、と」

「……あらま」

 仕送りを止められたら、と花娃は本当に頭を抱えた。

 もともと行く気がなかった大学院に行っているのだから、とは思うが、全くすべてを止められたら、きっと暮らしてはいけない。というか、言われた言葉はそれだけではなくて。

『お父さんが入院したからと言って、仕送りを辞やめるのはどうかと思うけど、でもね花娃。あなた、勉強で身を立てれるわけ? 就職も考えないで、まぁ、確かに奨学生だって言うから、お金はいらないけどね』

 他にも、きちんと就職をしなさいだの、もし就職をしないのなら、安定した誰かのところへお嫁に行きなさい、と言われたのだ。

 一人娘の希望さえ聞いてくれないような親で、花娃は本当にあの両親に愛されているのか、と思う。

「最悪、学校を辞める羽目になったらと思うと……」

 この暑さも本当に参るくらい、精神的に参っていた。

 せっかく勉強をしようと、聖アンティエに入ったと言うのに、と思ってそれを聞いた時悲しくなった。

「花娃、あなた、本当に波乱あるわね」

 ため息交じりに言ったその言葉を、本当に暗い気持ちで聞いて、けれどエジプトまで来ていて、そして今は発掘現場。何をするのか、と聞かれたら、発掘の勉強と、歴史の勉強、そして経験。

 花娃がしたいこと、そしてなりたいものは、歴史の専門家。考古学者なのだ。けれど、それもきちんと身を立てれるのか、と言われれば保証がない。

「勉強しないと言ったら言ったで、リヒャルトには説得されて、両親は反対気味。ようやく勉強できる環境が整ったら、今度は勉強ができない環境になりそうになって」

 ほほ、と笑う相良に、花娃は唇を尖らせる。

「才能のある子には、苦難がつきものかしらね」

 笑い事じゃない、と思いながら花娃は覚えたての発掘作業を再開した。

「それであなたは、まだ勉強をしたいの? 何かを成し遂げたいの?」

 作業を止めて、にこりと笑う相良を見て、花娃は頷いて汗を拭った。

「私は、篠宮さんの影響もあるけれど、何かを成し遂げて、勉強で身を立てたいんです。学校をやめたくない」

 ふーん、と言ってにこりと笑う相良は、流れる汗を拭った。

 そうして、埃を払って立ち上がって。

「ひとつ聞きたいんだけどいいかしら?」

 花娃は立ち上がって下を見る相良を見上げた。

「あなた、勉強ができるなら何でもする?」

 言われて、すぐに返事が出来る内容ではなかった。

 花娃は暑い空気の中、頭がゆだっていて、うまく考えることができなかった。

「何でも、って、なんですか?」

「別に無理難題ではないわ。ちょっと決心すれば、出来ることよ」

 決心すれば、とは何だろう、と思った。

 花娃も立ち上がって、埃を払う。

「ねぇ、あなた、リヒャルトと付き合ってるんでしょ?」

 そこでピンと来て、花娃は首を振った。

「篠宮さんに、頼れってこと? 付き合ってるって言っても、ごく最近そうなっただけで、そんなことを頼める間柄ではありませんが」

 それは分かっているわ、と相良はにこりと笑った。

「まだ何も始まってない関係よね。あなたからリヒャルトの匂いがしないから」

 花娃はその言い方で、どうせ身体の関係なんてないんでしょ? と言っている気がした。

 当たり前だと思いながら、相良を睨む。

「下ネタですね。今している話と、何か関係が?」

 普通にムッとした口調になって、花娃は息を吐いた。

「まぁ、待っていなさいな。勉強を続けたいのよね?」

返事をしなさい、と言っているような口調で言われて、花娃は頷いた。

「わかった。ほら、発掘作業を再開しなさいよ」

 言われて花娃は首を傾げたが、発掘作業は途中だったので、言われるままに花娃は作業を再開した。

 意味が分からない、と思いながら花娃は相良を見る。

「悪いようにはしないわ、花娃。だって私はあなたに期待しているから」

 花娃が相良を見ると、相良はにこりと笑って作業をするために下を向く。

 花娃もそのいとは分からないけれど、作業を再貸して目の前の遺跡に注意を向けた。

 これが終わったらどう暮らしていこうか、と。何度も考えた。発掘作業に来たこの経験をもって、最後になりたくなんかなかった。

 けれど現実は厳しく花娃の上に降り注いでくれた。

 しょうがない、と思いながら、花娃は少しだけ目を閉じる。

 相良の考えていることなんて、皆目見当もつかなかった。本当に全く。

 

 

 発掘調査の日程は約二週間の予定だった。二週間も外国にいるのは、というか外国自体が初めてなので、いろいろと大変なことも多かった。食事はともかく、水が合わない感じで、最初はお腹をやや壊したので、ミネラルウォーターを飲むようにした。それを話したら相良から、馬鹿ね、と言われたが。

 日本をこんなに離れることはないから、日本人が日本食を恋しがる、というのも分かる気がした。それなりに充実していて、とても勉強になる。花娃は英語が話せないが、言われていることを相良が通訳してくれたりするので、それだけでもかなりいい経験になった。

 すでにエジプトにきて一週間と二日。ホームシックというわけではないけれど、日本が恋しかった。

 何よりも、日本に帰ったら両親と話して、どうにか大学院に残れるよう、交渉する必要がある。

 仕送りがないと花娃は暮らしていけなかった。何より、勉強をきちんとしないと、聖アンティエのカリキュラムにはついていけなくて。アルバイトをしている学生もいるが、そんな人は長いスパンをかけて博士号を取ろうと考えている人が多かった。けれど花娃は、博士号を取るなら、早めにとりたかった。両親は渋い顔をして聖アンティエに行くことを承知したのだから、なるだけ短いスパンで、と思う。

 けれどそれも、もしかしたら、と思うとため息が出る。

 強い思いを持った理人から、花娃は心を揺さぶられて、本当は何がしたいのか、というのをようやく見出せていた。初めは父の勧めで聖アンティエの理学部を受けたが、落ちた。けれど興味を持っていたのは考古学で、だから逆に落ちてよかったのかもしれない、と人間科学部に入ってよかった、と思うようにした。

 そして考古学科が聖アンティエでもスタートして、エジプトまで来て発掘調査という貴重な経験が出来て。花娃の他にも、三人の学生が来ていたが、みんな楽しそうに質問をして、楽しそうに発掘をしていた。

 そんな時間が持てるようになったのは、やはり理人がいたからだ。理人がしつこく、聖アンティエに誘わなければ、彼が努力を、と言わなければ。花娃はあのまま何者にもならずに、夢も持たずに暮らしていたと思う。

『しつこいと熱心は紙一重なんだよ、花娃さん』

 そう言ってにこりと笑った青い目は、すごく澄んでいて綺麗だった。ある意味純粋な心を持っている理人に対して、目がくらむけれど、その光は花娃の心を照らした。

 理人の優しげで柔らかい顔立ちを思い出した。優しげだけれど、意志をしっかりと持っているその目を見ると、花娃は努力をしなければ、と思った。そして、彼の影響で聖アンティエに入ったのだから、と考えるようになった。

 この前はその目に見つめられて、捉えられて。

「どうして思い出すかな……」

 誰もいない図書室で、椅子から落ちた花娃の上に覆いかぶさられて。

 初めてというような感覚に陥るような、深く長いキスをした。理人の手を背に感じて、キスの間、あえかな声を出して、花娃も理人の身体に手を回した。

 それから、会えば軽くキスをしたりするようになったけれど、それ以上の関係はない。それ以上に進むようなそぶりは見せない。それが物足りないとか、そう言う風には思っていないけれど、普通は、と思う。

「前のあいつは、二週間くらいで手を出したのに」

 思い出して気分の悪さを覚えて、その思い出を追い出した。

 そして思うのは、理人のことで、こんなに会わなかったことは最近ないな、と思った。

 一度知ってしまったから、と花娃は思う。

 理人の唇の感触とか、その身体の感じとか。そういうものを知ってしまったから、こう思うのだと。

 だが、それでも思い出すと止まらなくて、理人のあの優しげな顔を追い出せなくなる。

「会いたい、な」

 自然と出た言葉に、少しだけ焦りながら、本当の気持ちだから、と思う。

 惹かれる気持ちはしょうがない。カッコイイからとか、そういうもので惹かれているわけではなく、純粋に理人の内面に惹かれている。

 彼の隣にいる自分は大して美人でもないけれど、と思いながらエジプトの夜空を見る。

 エジプトの空は、東京の空と違って、星がたくさん見えて、美しかった。

 この空をもう一度見るためなら、と花娃は学校に行ける努力をすることを決心した。

 

 

 学校に行ける努力を、と思って父に会いに行った。父は病院の個室に入っていて、病名は胆嚢炎。手術をしないでよかった、とのことでホッとした。

 そして花娃は学校のことを話して、けれど返ってきたのは冷たい言葉だった。

「諦めなさい、花娃」

 低くなった声が、花娃の耳に届いた。

「正直、大学は卒業しろと言ったが、大学院は考えていなかったしな。いくら聖アンティエに、とは言え、さすがにこっちも東京に仕送りをするのは堪えるんだ。確かに一人娘だし、やりたいことはやらせたい。だが、今の状況はやはりどう見てもお前の人生に蛇足に見えてしょうがないんだ」

「蛇足? 大学院が?」

「もし大学から聖アンティエに行っていたら、こういうことは考えなかった。だが、お前、勉強をしてそれで職業として成り立つ人は一握りだ。それより社会に出て、もっと人間関係とか、そう言う勉強をした方がいいと思うんだがな」

 父から言われた言葉は本当に冷たいものだった。

 大学までは行かせてやったじゃないか、というような感じだった。一度は大学院に進むことを了承して置いて、手のひらを反すようなやり方をするなんて、と花娃は思った。

「だったら、どうして院に行かせたの? 最初から、もっと強く反対すれば」

「お前の教授が言ってきたんだ。断れるわけはないし、その言い方から花娃もやれば、と思ったよ。だが、世間はそうは思っていない。何度、就職させたらどうか、と言われたか。もし諦めないなら、それもいいが、経済的にこっちもきつい。仕送りはある程度してやるが、今のようにはできない」

「酷い、お父さん」

「親の期待にこたえない娘を持って、これほど酷い仕打ちはない。おまけに金ばかりかかる。いったい何を考えているのかわからん娘に、何かをしてやろうという気はない」

 冷たく言い放たれて、けれど父は昔からこういう人だった。

「お父さんもこう言っていることだし、院は諦めて、就職なさい。お母さんもお父さんも本当は行かせたいけど、お父さん病気になっちゃったし。花娃はきちんと私たちのことも考えてくれるわよね?」

 この人たちは私のことを思っているのか、と花娃は思う。

 考えているなら、どうにかしてやろうとか思うはずだ、と勝手に思った。けれど、そう思っていないのだろう。

 花娃は悲しくなった。こんな人が親だなんて、と。

「仕送り、いらない。でも、院もやめない。やりたいことがあるの。あなた達が勧める就職は、単なる一般人の考えよ。私は、そんな一般の人たちの考えとか、そういうものに乗りたくはないの。今まで言うことを聞いて学校も勧められるままに行ったけど、それが本当に私のためになったか、というとそうでもないでしょ?」

 父の眉間の皺が深くなって、花娃を見る。

「親に何て言い草だ」

「大切な娘だったら、やりたいことをさせて。でも、出来ないんなら、私ももう帰ってこない。私の夢をかなえるまで」

 花娃がそう言うと、父は立ち上がって、花娃の頬を叩いた。花娃は床に転がって、それでも父を強い目で見上げる。父の手は怒りのせいか震えていた。

「仕送りはしない、援助もしない。もう、帰ってくるな、花娃!」

 お父さん、と言って母が止めるが母は父の言うがままにしか動かない。

「わかった。さよなら」

 父に逆らったことがないから、父が逆上するのもうなずける。

 けれど、花娃はこれでいいと思った。

 今までやりたいこともなかったから、自分もわるかったのだ、と思った。

 けれど、途方に暮れる、というのはこういうことで。親と縁を切ったに近しいことをして、花娃は自然と涙が出た。

「痛い」

 父に叩かれた頬が痛い。

 泣きながら病院を後にして、これからどうするのか、と思いながら歩く。

 空には光る太陽が夏の暑さを表現していて、実際に気温は高い。

『努力を』

 何か道があるはずだから、と思いながら涙を拭いた。

 一度息をはいて、花娃は不安を抱えたまま、けれど努力をするために歩いた。

 

 

 家に帰ると、家の前に誰かが立っていた。背の高い人は、理人で、なんというタイミングでいるのだろう、と思って微笑んだ。理人は花娃の顔を見て、少し眉をよせて、花娃に近づいた。

「どうした? その頬」

「……ちょっと、父からやられて」

 どうにか笑って、花娃はバッグの中から鍵を出す。差し込んで、ドアを開けて、どうぞ、と理人を家に上げた。

「篠宮さん、教授に私の家、聞いたんですか?」

 理人が靴を脱いで上がって、微笑んで頷いた。

「花娃が大変だから、行ってやって、って言われたから」

 花娃は座るように言って、冷蔵庫からお茶を取り出す。どのくらい待っていたのだろう、と思いながら、暑かっただろうことを想像する。

「あまりいい話し合いにならなかったみたいだ」

 自分の分と理人の分を注いで、グラスを置いた。花娃は頷いて、座って顔を伏せる。

「もう仕送りはしないでいいって言ってきました。頭ごなしにやめろ、っていうし、母も就職しろって。私が勉強をして何になるのか、と。そう言われました」

「それで、勉強をやめたくない、って言ってきた?」

 花娃は頷いて、お茶を飲んだ。

「やめたくないんだね、院も、勉強も」

 もう一度頷くと、自然に涙が出た。

 本当に花娃は生き方が不器用だと思う。最初は結婚すれば、もう何もしないでいいと思っていた。

 なのに今は何かがしたくてたまらないし、なのにそれができない状況になりつつある。

 本当に、どうすればいいのか。

「ドクター市橋夫妻が、君のことを見て、援助を申し出てくれたよ」

 顔をあげると、理人がにこりと笑った。

「分野は違うけど、その姿勢がいいって、特にドクター市橋の奥様が、君のことを見たい、と」

 市橋、という名を聞いて、市橋恒星という名の物理学者を思い出す。

「事情を話したら、卒業以降も面倒を見る、と。あの人たちは、自分達に続くような学者を生み出したい、って言っていてね。今後聖アンティエに教授で来るんだけど。手初めに、まだ若い君を、育てたい、と言ってくれたよ」

「……私、そんなに期待できるような、そんな学生じゃないのに」

「それは、君の決めることじゃない」

 理人からはっきり言われて、花娃は涙が新たに出てきた。

「どうする? 援助の金額は毎月の学費分プラス二十万円。君が院を卒業するまで支払われて、それ以降もことと次第によってはその支払う、と。もし、君が何かの実績を上げれば、しっかりとそれで自分の足で立ったらそれでいい、と言ってくれているけれど」

 そんなことをしてくれるのか、と思いながら花娃は頷いた。

 その様子を見て満足したのか、理人は花娃の頬に手をやって、軽く涙を拭いた。

「篠宮さんが、話をつけてくれたの?」

「理事としては、優秀な生徒を手放すのは惜しい、と思って。君の成績とか、授業に対する態度とか、そういうものをすべて見てもらって、決めてもらった」

「ほかにはいなかったの? 私以外に」

「いることにはいたけど、援助の必要性はなかったから。何より、努力度合いが違う、とドクター市橋彗が言っていたよ。いくつも論文を書いて提出しているのは君だけだったし、野絵留も評価していたからね」

 理人がいなかったら、きっとこんな話は来なかった。それに、理人と会わなければ、こんな道が開けなかった。

「その代り、努力を」

 理人の言葉に頷いて、花娃は自分で涙を拭いて笑みを浮かべた。

「それで、住む場所の提案だけど、僕の家から通わない?」

 言われて、花娃はすぐに首を振る。

「そんな迷惑は。なんとか大丈夫だと思うし」

「家賃はいらないし、食費もいらないよ。父が、そういうことなら、と言ってくれているし」

「でも……」

 そこまでしてもらうのは、悪いと思った。何より、一緒に住むなんてことは、何となくできなかった。

 惹かれている人だから、というのが最大の理由なのだが。

「家は広くて、今は野絵留も住んでいるしね。それに、君が側にいると、僕も嬉しい」

 花娃はにこりと笑った理人を見て、それはどういう意味だろうと思う。

 そうして、テーブル越しに理人が身を乗り出して、花娃の唇に優しくキスをした。軽く啄むようなキスはすぐに離れて、その綺麗な形の唇が笑みを浮かべる。

「僕の側にいるのは、嫌かな?」

 この人はきっと女をその気にさせるのが上手いはずだ、と思う。

 付き合っているのは事実だけど、花娃の心はただ惹かれているだけであって、まだ恋までに発展していない、と思っている。けれど、こんな笑顔を向けられて、優しいキスをして、側にいるのが嫌か? と聞いた。

 そんなわけはないだろう、と思いながら理人の顔を見る。

 そして思うのは恋に発展していないと思っているのは、ただ花娃がそれを認めたくないからかもしれない、ということ。

「か、考えます」

「早急に、ね」

 言われて今度は少し長いキスをされて、花娃の涙はすっかり止まってしまった。

 花娃の涙を止めるための行為なのか、それとも愛があっての行為なのか。

 よく分からないが、この人から何をされても、別に嫌だと思わないだろう。

 今、押し倒されて何かをされても、花娃は受け入れるだろう。

 そう思った。

【2013/10/05 03:52】 | Uniform | トラックバック(0) | コメント(0)

Uniform:5

 なぜこんなことに、なぜこんな風に怒りを覚えなければならないのか。

 ただ、分かるのは、本気で本当に頭にきたこと。そしてむきになって、相手を見るけれど、相手はただ余裕の笑みを向けるばかり。

 周りはシンとして張りつめたような空気を、泳いだ目で見ている。

「私は私の考えを否定しません」

「それだけの情報と知識で、よく言える」

 ムカつく、と言いたい。この人に、頭にきた、と。

 単なる意見の交換で、これだけ白熱してこれだけ考えて、これだけ一生懸命になったことなんて初めてだった。

 

 

「田村さん、私の部屋へきて頂戴ね。早くよ」

 にこりと笑ったのは相良野絵留。

 聖アンティエの考古学科の教授で、花娃を聖アンティエに推薦した本人。

 その人がにこりと笑って、そして花娃を呼ぶ時、あまりよかったためしがない。

「田村さん、また雑用頼まれるわけ?」

「いや、雑用の時はあんなににっこり笑わないから。樋川さん、アイスクリームはまた今度でいい?」

 樋川澪子は眼鏡をかけた、真面目な子に見える。が、本当はそうでもなかった。

「じゃあ、彼と行くから大丈夫」

 さすが聖アンティエに通うだけあって、勉強は出来るが、彼女は結構強い女で。

「彼ってどの彼?」

「医者の彼。最近知り合ったんだ」

 彼女が付き合う男はみんな高収入。将来は、セレブ妻を目指す可愛い女というところだろうか。

「理想はぁ、相良理人だけど、あの人が隣にいたらドキドキして話にならないから。ある程度の顔で私はいいんだ」

 えへ、と笑うその顔を見るに、花娃も可愛いな、と思う。彼女がしている眼鏡も可愛い要素の一つで、花娃はそこは羨ましい。そして、男に対するバイタリティ、そこもすごいと思う。

「それに、ねぇ、言ってよ。付き合ってるんでしょ?」

「何が?」

「最近一緒にいるって聞いたよ?」

 花娃は眉間にしわを寄せて、あのね、と言った。そう言って、確かに一緒にいることも多いため、嘘は付けなかった。

「……一緒にいて悪いの?」

「認める?」

 花娃は周りを見て頷いた。そうか、と思う。

 最近やけに花娃自身に視線を感じる。

「相良理人……」

 原因はよく分かった。

 大変嬉しいことに、それに対して多少は疎まれたりしても、攻撃はしてこないらしい。それは彼の人望なのか、それとも花娃が下に見られているのか。

「いやー、やるわねぇ、と。田村さんも強い女だったのね」

「私、付き合ってるって言った?」

「言ったも同然でしょう。一緒にいて何が悪いの? ううん、全く悪くない」

 首を振ってにこりと笑う。

 この前、理人から交際を申し込まれた。そして花娃は、すぐに返事をしたのだ。

『約束して下さい。私を好きになってくれることと、優しくしてくれること』

 いったい何を言ったのか。あとから考えても赤面ものだ。

 花娃は理人に興味があった。もちろん、異性として。けれど、どこか浮世離れしている理人だから、そういう風になることはないだろうと思った。なにより、理人が花娃に興味を持っているのは、花娃の頭の中身だけで、それ以上それ以下でもないと思っていたのだ。

 いや、そうだろう、と思うのは花娃が素直じゃないからか。

 いつも会うのは学校の中でだけ。彼の携帯のナンバーも知らなければ、今住んでいる場所も知らない。ただ、学校の中だけの付き合いだ。しかも話す内容も、勉強のことばかり。それをしない時は、いつも理人はパソコンを眺めていた。眼鏡に映った数字の羅列とか、文字の羅列をみると、仕事をしているのだと思う。

 理人に教えてもらった場所は本当に静かで勉強がしやすかった。第二図書室という穴場は、本当に人が来ない。そして、二階の左奥には特に。誰もその机を使った形跡はなく、ただ管理のため掃除はしてあるが、本当にそれだけ。まるで隠れ家的なそこは、花娃も頻繁に来るようになった。

 そしてその帰り道に一緒にいることが多いので、やけに注目を浴びるようになったのだろう。

「相良理人ファンは多いけど、ただ見てるだけの人が多いからね。それより勉強しないと置いて行かれるし」

 そう言って肩をすくめる澪子は、いたずらっぽく笑った。

 澪子の言っていることは実際にそうで。恋にかまけていたら、この聖アンティエでの勉強が追い付かない。それはよく分かっているから、誰も授業を休まない。もし休んだとしても、ここは単位制だというのに補習がつく。なので、授業のチェックは必ずして、休むわけにはいかないのだ。

「ねぇ、それより教授のところ、行かなくていいの?」

 は、と思いだして、花娃は鞄を持って立ち上がる。今日も重い鞄を持ち上げて、肩が抜けそうだと思った。

「樋川さん、ごめんね」

「んーん。またね」

 そうして澪子と別れて、花娃は急いで相良の部屋へ行く。相良の部屋、とは彼女の研究室で、主に受講している生徒に対しての授業などがある場所だ。そう思いながら、ふと気付く。

 そうして足早に研究室に行くと、そこにはもうすでに十五人以上の生徒がいた。

 花娃はしまった、と思った。そして、アイスクリームを食べなくてよかった、と。

「田村さん、十五分の遅刻よ」

 相良が腕時計をトントンと指先で叩く。

 花娃のノルマはもちろん終わっていた。が、テーマを用いて研究と討論をする日だった。今日は花娃が発表をする日ではなかったけど、相良は花娃を見て言った。

「研究テーマだけど、神学科があなたのに興味があるって。文学科もよ。あなたの番じゃないけど、今日は途中まででいいから発表してくれないかしら?」

 神学科と文学科は同じく史学を共有する科でもある。それぞれの分野の中で史学を発表する者、文学を発表する者、そしてその思想を発表する者、さまざまな研究の部類で、ゼミは別れている。けれど、史学だけは特別で、ここではそれ俺に発表し合う場を、ひと月に一人選出して、一週間互いに共有して研究をするのだ。

 そういう場があるのはもしかしたら聖アンティエだけかも知れないが、これは論文慣れする目的もあるのだ、と理人が以前教えてくれた。

「でも、私のは……本当に、論文に毛が生えた程度というか」

 花娃が言うと、相良の隣にいた文学部の教授が、それがいいんだよ、と言った。

「確かに未完成で、常識程度の論文だが、面白いからね。相良君も、そう思うだろう」

 言われて理人が花娃を見る。きっとこの中で理人は年長な方だろう。だから教授も意見を聞くのだと思われた。

「はい。史学以前に、神学科としては、多少気になる内容ですね」

 そういうことを言うなよ、と言いたかったが、けれど理人がそう言ったので花娃の方に注目が集まる。

「情報の共有をしていたりするのかな? 君たち仲がいいみたいだからね」

 ははっ、と笑いながら神学科の教授で神父の宮前が言った。神父だが軽くて明るくて社交性のある宮前は、理人と花娃のことを仲がいい、と余計なことを口走る。

「それとこれは別ですから。田村さんが発表しづらくなるので、やめてもらえませんか?」

 やけに優しい口調でそんなことを言うから、周りの目が再度花娃に集中する。そうして、花娃ににこりと笑って見せるから、厄介だった。

「田村さん、座りなさいな。発表、それにディベート出来ないわ」

 花娃は座って、自分の重い鞄を開く。中から書きかけの論文取り出して、周りを見てから、声に出して読んだ。

「十字軍について……これは、仮題です……。ヨーロッパの歴史には疎いので、これをテーマにして中世の歴史を知りたいと、そういう目的で書きはじめました」

 花娃は目を周りに送ってから、論文を発表する。

「現代と、十字軍の歴史の類似性について、発表します」

 息を小さく吐いて、実際の論文を読む。

「十字軍の遠征までの経緯は、トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された、東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノスが、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端となっています。大義名分として、……この言い方は不適切かもしれませんが、イスラム教徒からの聖地奪還を目的として派遣されました」

 皆黙って聞いた。途中、質問が飛ぶこともあるが、花娃が語る間はなかった。それにホッとして、花娃は論文を読み続けて、時々周りの反応を見る。

「大部分の十字軍は聖地エルサレムに辿りつくことはできなかった、と歴史上なっており、この他、小さな十字軍の存在も認められています」

 早く終わらないかな、と思いながら論文を読み進めて、まだ結に至っていないことを詫びてから、花娃は息を吐いた。そして周りの反応は、質問も飛び交うこともなく、かといって笑うこともなく、シンとしていた。

「これは余談ですが、ハーメルンの笛吹き男の背景には、この十字軍と関係があるという説があります。……以上で論文発表を終わります」

 花娃が座ると、相良が意見や質問は、と言った。そうして手を挙げるものは誰もいなくて、花娃はややホッとしたが、斜め前にいる理人が手を挙げた。

 そうして理人が指名されて、花娃を見る。いったいこの人が何を花娃に言うのか、と身構えた。

「途中ながらよくまとまっていたな、と思います。多少、稚拙なところはあったように思えますが、僕は聞いていて面白かったです。……なので、まだ完成していない田村さんの論文の、最終的な考えについて聞きたいのですが、いいですか?」

「はい」

 と言いながら、理人がどう来るのか、というのは全く予測できない。

「どこまで、この論文を書く気でした?」

「どこまで?」

「ええ。ところどころ、ぼかして書いてあるので、どこまで真実を書く気だったのか、と思いましたが」

 ぼかした、というのは十字軍の暗い背景についてだろうか、と思った。

「ある程度は、真実を書く気でした。相良さんや、他のカトリックの方に失礼だと思いましたが」

「では、失礼だから真実をたいして書かなかった、と?」

「そんなことは言っていません。まだ出来上がっていないものですし、初めて発表しましたから」

 理人はそうですね、と言って花娃を見てからにこりと笑う。

「では現代の戦争、紛争をどう思います?」

「私は平和な国にいるから、たいしたことは言えませんが、ニュースを聞くと矛盾しているとか、空しいだけだと思います」

「では、十字軍の行いはどう思います? 彼らがしたこと、そしてエルサレムを奪還するまでの行程は?」

「無駄だとは思いませんが、酷くこれも矛盾していると感じました。人の歴史は、やはり争いが絶えないのだと、中世のヨーロッパ辺りを研究するとそう思います」

 理人は頷いて聞いて、この論文こそ矛盾の塊だと言った。

「なぜ?」

「ここには神父も神学を専攻する学生も、そしてカトリックもいる。確かにぼかしたい部分はあるでしょうが、僕たちは何を十字軍が行ったのか、よく分かっている。そしてその歴史において、どのように世論に影響したのか、も。ですが、もしこのような論文だったら、テーマを変えた方がいいかと思います」

「なぜですか?」

「真実を書かないなら、論文としては駄作です」

「けれど私は私の考えで……」

「その考えのどこに根拠が?」

 理人は花娃をたたみかける。それに気分の悪さを感じて、花娃は反論した。

「資料を参考にして、私自身の考えを述べるのは、論文として当たり前だと思いますが」

「確かにそうでしょうが、根拠がなければ考えを述べれませんよ? あなた論文からは、真実の匂いもしなければ、どこも考えて書いていないように思える。これがあなたの思考ですか?」

 理人は顔色も変えず、花娃に言った。周りを見ると、花娃と理人しか見ていなかった。普通に怒りを覚えてしまって、これではいけない、と思う。

「私は私の考えを否定しません」

 花娃が言うと、そうですか、と言っておかしそうに笑う。

「それだけの情報と知識で、よく言える」

 花娃はそう言われて、理人を見る。もしかしたら怒りがこもっていたかもしれない。

 その言い方、口調、すべてに腹が立つ。

「稚拙です、何もかも」

 理人がそう言ったところで、パン、と手を叩く音が鳴った。そうして、次に二回手を叩く音も。

「終わりになさい。まだ出来ていない論文でよくもこれだけ意見交換できたわね。これでおしまいよ、いい?」

 相良がそう言って花娃を見る。

「これ以上やるなら、二人の時にやって頂戴。今日はお客様も来てるのに」

 客と言われて教授陣を見ると確かに知らない人が、一人座っていた。その一人は肩をすくめて笑って、声を出した。その口調は、本当にゆっくりで、訛りがあった。

「いやいや、ええもん見させて頂いたし。何や昔に戻ったみたいで、楽しかったですえ」

 そう言われて、花娃を見てにっこり笑ったその人は、ヒョロとしていて、けれど容姿はそれなりによかった。

「ディベートで白熱するんはええ事です。僕も昔、ようやりあったよ。正論と知識の豊富さは相良君の勝ち。でもまぁ、情熱なら田村さんの勝ちかも。ただなぁ、冷静な人には冷静で立ち向かわんとな。討論の間にも頭冷やさんと、ただの喧嘩になるえ?」

 言われて花娃はそうか、と思いながら息を吐く。

 けれど、なぜここまで、と思うのはしょうがないだろう。

 理人は余裕の笑みを浮かべ、花娃を見て、そして自分の知識を使って花娃の論文を稚拙だと言った。確かにそうだろうけれど。

「ドクター市橋恒星よ。まぁ、私たちの分野ではお世話になることはないだろうけれど。知っている人は知っているでしょう? 天文物理学を専攻している方」

 紹介された市橋、と言う名に聞き覚えがあった。

 花娃はそれくらいの知識だったが、周りはざわめく。

 それよりも先ほどのディベートが頭に残って離れない。

「今日はここでおしまい。また今度」

 相良がそう言って、院生たちは立ち上がる。それぞれに荷物を持って帰ろうとする者や、先ほどの市橋に話しかけるものもいた。

「相良君はどうするの?」

 近くにいた髪の長い綺麗な人が聞いた。顔立ちが綺麗だから、理人と並ぶと余計に映えた。

「僕は図書室に。調べ物があるから」

 そう言って立ち上がって、一度花娃を見る。花娃はその視線から目を外して、そして自分の鞄を持った。

 早く帰りたい、と思った。そして思うのは、この論文をしっかり書きあげること。けれど、先ほど理人が言ったように、表面だけのぼかした表現は外そうと思った。花娃だって、そういう残酷な背景など書きたくはない。だが、テーマに失敗したな、と思う。これだったら、花娃の好きな古代史にでもしておけばよかった、と。

 そうして研究室を出て、花娃は先に部屋を出ていた理人の後ろ姿を見る。理人は言葉通り、図書室へと向かうようだった。廊下の角を曲がって見えなくなって、花娃はため息をついた。

 そして自然と足は理人が向かった方へと、進んだ。

 行先はきっと第二図書室だと分かる。理人が勉強するとか、調べ物があると言ったら、必ずそこを使う。

 だから花娃は、何も考えずに図書室へ向かって、その扉を開けた。

 図書室には誰もいなかった。時間は午後四時のちょっと前。時間的にいないのだろうな、と思いながら中に入って二回の左奥のテーブルを目指す。誰もいないと思っていたら、司書はきちんと座っていて、パソコンを見ている。一度花娃を見たがすぐにパソコンに目を戻した。

 誰もいない図書室は花娃の靴の音さえ響く。その音を聞いて、誰かが来たと分かるほどだ。

 そうして階段を上って、花娃は目的の場所に行くため、本棚を三つ通り過ぎて、左へ曲がる。

「来たんだ?」

「別に、相良さんを追ってきたわけじゃないから」

 花娃が言うと、理人は、にこりと笑っただけで、読んでいた本に目を向ける。

 先ほどまではあんなに熱くなって言い合ったというのに、理人はもうクールダウンしたらしい。花娃はまだそんな気分になれないのに。

 花娃は理人の前の席に座って、隣に鞄を置く。図書室の椅子はすべてベンチのようになっている。そしてテーブルも椅子も二人掛けで、三人は座れない。それはきっと少数で勉強をしろ、と言うことのなのだと花娃は思っている。

 花娃が座っても何の反応もない理人を見て、花娃は心の中で理人に言った。わざとらしく、ここに来ると言ったくせに、と。

「今日の論文、きちんと完成させるから」

 花娃が言うと、ようやく理人は頭を上げた。

「がんばって」

 それだけ言うと、また本に目を落とす。そして横に置いていたレポート用紙に何か書いて、そしてページをめくった。調べ物があると言ったのは本当らしい。だから、と思う。

 花娃は今、空気と同じ存在なのだと。

 こんなので付き合っているのか、と思う。確かに付き合ってと言われて、そして一緒にいる時間も増えただろう。まだ理人からそう言われてひと月弱しかたっていないが、もし本当に好きだったら、手を出されてもおかしくない時期。

 そう思いながら、理人に興味があって、そういう意味の目線を理人から付き合ってほしいと言われてからは、向けていたのではないかと思う。

 だが結局、話に熱くなったり彼が本意を言うのは、勉強の話をする時くらい。この人はやはり花娃の頭にしか興味がないのだと、そう思える。

「少しは頭が冷えた?」

「は!?

 花娃が苛立った声を向けると、理人は花娃を見て、まだだね、と言って本に目を落とす。

「どういう意味?」

「そういう意味だよ。君の頭が冷えたら話そうと思って」

「今の私とは話したくないっていうこと?」

「違う。ただ、感情で話したくないだけ。君は素直だけど、怒りを持続させる癖があるみたいだ。怒りは罪だよ」

 理人が花娃をみてにこりと笑う。だからなんだというのか、と花娃は理人から視線を離す。

「あれで怒らない人がいたら教えてほしいです」

「君はあれくらいで怒っていて、何百人もの前で論文発表をするつもり?」

「そんな機会、まだ与えられていないし」

「近い将来、与えられたらどうする? 論文発表は意見、質問の嵐だ。そのすべてに感情を抑えて出来る? 花娃さん、あれは練習の場だよ。僕が手を挙げなかったら、宮前神父が手を上げていた。あの人は結構、感情論も出してくるから、厄介なんだ」

 でも、だからってあそこまで、と心の中で言って、花娃はうつむく。

「でも、本当に、メチャクチャ、ウルトラスーパー、超ムカついたんです! これは私の最上級のムカつき具合で、すぐには頭なんて冷やせません。っていうか、相良さんは私の頭しか興味ないみたいだし、これを機にもう私、離れますから」

 花娃が言うと、理人はその青い目を瞬きして眼鏡を押し上げる。

 そうして分厚い本を閉じて、溜息をついた。

Es gibt niedlich nicht es.

「……は?」

 何か言葉を呟かれたが、聞いたことのない発音だった。少なくとも英語ではない。

 英語ではない何かを言ってから、理人が立ち上がって花娃を見る。そうしてそのまま花娃の鞄をテーブルに置いて、隣に座ると、花娃の視線をとらえてじっと見た。そして肘をついて手に顔を乗せて、間近で青い目の存在を見る。

「君の頭の中身、僕が興味を持つような何かがあるの?」

 そう言われて余計に怒りを買うとは思っていないのだろうか、と花娃は思いながら少し理人から離れた。

「そうとしか思えないから。別に、私自身に興味があるわけじゃないみたいだから」

「そんなこと、僕は言ってない」

「だから、そんな態度を取ってますって、そう言っているの。私は普通の女だし、まだ若いし、もしそういう風にしか見ていないのなら、私は私のことを好きになってくれる人と、私のことを甘やかしてくれる人を探します」

「……Es gibt wirklich niedlich nicht es.

 理人はそう言って、溜息をついた。

「だから、なんて言ってるんですか!?

 理人は瞬きをして花娃を見て、肘をついていた手を解除して、そして花娃の上腕を握った。少し引き寄せられて、顔が近づく。花娃はとっさに唇を閉めて、何をされるか悟った。

Um Sie so sehr zu verwöhnen.

 ゆっくり目を閉じて、ゆっくり唇が重なったのに、花娃は振りほどくとかそういうことをしなかった。軽く重なっただけの唇だったが、理人が唇を開いて、花娃の唇を挟み込むように啄んで離れる。濡れた音を立てて離れる唇の感触は、とても柔らかかった。

「キスをする時は目を閉じてほしいな」

 まるでウインクをするように軽く片目を閉じて見せて、花娃はキスをしたのだとやっと実感をした。そうしてもう一度理人の身体が近づいたので、花娃はそのまま少し離れる。

 そして手をついたと思った場所は、何もないところで花娃はバランスを崩して、椅子から身体ごと落ちた。理人に腕を握られたまま落ちて、腰を打った。

「い、った!」

「どうかしたのか!?

 遠くで大きな声が聞こえる。それはたぶん司書の声だろう。花娃が落ちた音が聞こえたのだ。

 理人は椅子を大幅にずらして、花娃の足の間に自分の片足を置いて立ち上がって、本棚の間から顔を出した。

「すみません、本を落としてしまって」

「……そうか、相良君。邪魔をして悪かった」

 理人が答えると、こういう言葉が返ってくるのか、と思いながら花娃の足の間にある理人の足を見て、花娃は理人を見上げた。

 花娃の足の間に理人の足がある状態が、花娃を緊張させる。理人はそのまま膝をついて、花娃と目線を近づけた。花娃のきわどい部分に理人の膝がある状態で、理人は花娃の頭を指差した。

「君の頭は単純で、すぐに悪い方へと考えて、そして怒ることばかりをする。でも、ここは」

 そのまま指が花娃の顔の前を通り、胸の辺りで止まった。そこは心臓の上だった。

「将来の夢と理想と、これからも良くなりたいと思う心が詰まっている。僕は、君の頭には興味がないけど、君の心には大変興味がある。そして、僕のここも」

 自分の胸を指差して、そしてにこりと笑う。

「田村花娃を求めてる」

 花娃は息を吐いた。

 こんな言い方をするのは、外国の血が入っているせいなのか。

「君が勉強の話をしだすから、僕もそれに応えているだけ。君が勉強をしているから、話さないでおとなしくパソコンをしている。それに、君に何も意見を言わなければ、君の論文は成長しない。……僕は花娃さんを甘やかしているつもりだったけど、もっと女として扱えばいいのかな? 勉強の話をするのは大いに結構だし、それに応えることも僕には出来る。けれど、君も女としての態度を、僕に出した?」

 言われて目が泳ぐ。確かに、そういう態度は出さなかった。好きだと一度も言われていないし、だいたい花娃の方から申し込んだわけじゃないから、と思っていた。

「私に、そういう態度を出せって言うの? だって、付き合ってほしいって言ったのはそっちですよ。勝手に手を出せばいいじゃないですか。私、ずっと勉強の話をするのは、それが必要だからです。論文だって確かに成長を遂げるには意見も必要だと思う。もっと分かりやすく言ってくれたら、論文の内容だって直すし」

 そこで理人がため息をついて、唇に人差し指を当てる。その仕草でここは図書室だった、と思いだして声が大きくなっていたことを認めた。

「……また勉強の話ですか。いいよ、付き合いましょうか」

「勉強する場で、勉強の話をして何が悪いの。それを聞いてくれることくらい、出来るんだったらすればいいじゃないですか。こんなところで会っていて、何をするの? 勉強しかないでしょ」

 花娃が声を抑えて言うと、理人は青い目を閉じて、本当に深いため息をついた。

 開けた時のその目の色は、本当に落胆していて、花娃はその目を睨む。

「可愛くない上に、女としての色気もない。これじゃ、確かに可愛くないって言われるのも無理はない」

「ちょっと、今、なんて言いました!?

「君の、前の彼がよく君に欲情した、と感服したところ」

 可愛くないと言われて傷ついた。本当にあの時、少しは落ち込んだのだ。けれど、この人からは二度言われたのだ。初めはまだ大学生だった時に。そして二度目は今。

「ムカつく! どいて下さい!」

 花娃が小声で言って、身体を起こそうとしたが、その身体を理人が止めて、そのまま身体を床に押し付けた。絨毯の感触が身体全体で感じられて、花娃は上にいる理人を見て、そして横を見た。花娃の顔だけが本棚の陰から出ていて、司書の作業場面がよく見える。

「あっ」

 身体を下に下げられて、理人の顔が間近にあった。西洋と東洋の血がブレンドされた顔は、どちらかと言うと西洋よりの顔立ちで、近くで見ても綺麗系のイイ男だった。細身に見えていたが、下から見る身体はさすがに外国の血が入っているからか、意外としっかりしている。

「二人になれば、少しはそういう部分も見せてくれるか、と思っていたけど。全く駄目だと今、気づいた。我ながら気づくのが遅かったかな」

 そう言ってさらに顔が近づいて、花娃の唇の上に、唇が重なる。優しく触れるようなキスをして唇が軽く重なったまま、理人は言った。

「これからは、僕が君の女の部分を出すよう、努力しようか。もちろん、勉強の話も受け付ける」

 そう言ってから唇が離れて、花娃の上着のボタンが外される。

 まさかここで、と思ったがそういう気はないように思えた。けれど、何をされるか、解らない。

 上着の横から手を差し入れられて、ブラウス越しに背に触れられる。そのまま横抱きにされて両手が花娃の背を抱いた。そうして撫でられて、緊張のために心臓がうるさくなる。心の底からこみあげる何かがある。

 理人は花娃を見て、そしてにこりと笑った。片方の手が背から離れて、顎の部分を少し持ち上げて、下顎の部分を少し引っ張り、花娃の唇を少しだけ開けさせた。

「なに……?」

「声は、抑えるように」

 理人の笑顔が近づいて、花娃は目を閉じる。そうして重なった柔らかいものは、花娃の唇を挟み込むように優しく動いた。下唇と上唇交互に甘噛みするようにして、そうして口腔内にさらに柔らかいものが侵入した。

「ん、ん」

 理人の手は花娃の頭を固定するように首筋に移動して、もう一方の手は背と腰の辺りを上下する。

 キスでこんなに優しく抱きしめられたことはない。そして、今までしたキスがどんなに簡単なキスだったのか、と思うほど理人は上手かった。

 今までの経験がそれをさせるのだろう、と思う気持ちもあったが、それよりも理人のキスに酔ってしまう。

「は……んっ」

 強く唇を吸われて、水音とともに唇が離れる。その唇はぬれて光っていて、花娃はそれだけで顔が熱くなった。

「声は抑えて、と言ったでしょう」

 そうしてもう一度キスをされて、キスをしながら身体を起こされる。

 理人の足の上に座らされて、向かい合う形になって、理人は両手で花娃の頬を包んだ。花娃は理人に身体を預ける形となって、深く優しく、時には少し強いキスを受ける。

 ようやく唇が解放されたのはどれくらい経ってからだろうか。

「あ……っは」

 息が上がるのは止めていたせいだ。そうして理人は花娃の顔を確かめるように見て、満足そうに笑う。

「やっと可愛くなった」

 その言い方に多少ムカついたが、そういう目を向けると苦笑されて、花娃さん、と言われた。

「今のそういう顔も、男を煽る顔になっている。上々だ」

 本当に満足そうにそう言って、花娃は理人の肩を叩いた。

 そして理人はまた人差し指を唇にやって、花娃の身体を降ろす。先に立ちあがってから、花娃の手を引いて立たせてもらった。そうしなければ、まだしばらく座っていそうだった。

「論文楽しみにしてる」

 先ほどまでああいうことをしていながら、と。花娃はいきなり真面目な話をする理人を見る。

「それに、さっきの続きも、いつかね」

 今度は耳元でささやかれて、花娃は唇を引き締めた。

 頬に軽くキスをして理人は自分の鞄を持つ。花娃はそれを見ながら、椅子に座った。

「十分くらいしてから、ここを出て。その顔じゃ、何をしていたかすぐに分かる」

 そう言ってから理人は花娃の横を通り過ぎた。

 誰もいない図書室だから、理人の靴の音が聞こえる。

 そうしてその足音が遠ざかって消えて、花娃は重い息を吐いた。

 怒らされたかと思えば、甘やかされたように思えた。

「や、だ、もう!」

 自分の声が大きくなっていることに気づかずに、思わず言ってしまう。

 たぶん、と心の中で思う。

 理人は本当はいつでも花娃に手を出せたのだ、と。

 そしてそれをさせなかったのは、自分なのかもしれない、と。

【2013/10/03 06:29】 | Uniform | トラックバック(0) | コメント(0)

Uniform:4

「ねぇ、リヒャルト、あの子の制服姿、見た?」

「見たよ。まだしっくりこない感じだけど」

 荷物の整理をしながら返事をしたのが気に食わないらしく、こっちを向きなさい、と言われる。

「なに? 忙しいんだけど」

「忙しくてもレディの言うことは聞くものよ。中断してお茶でもいかが?」

「野絵留、今日中に片付けたいんだ」

「片付くわよ。何ならあの子、呼びましょうか? アルバイト料出せば、来てくれるわよ」

 ため息をついて、手に付いた埃を払う。

「手を洗ってから行くよ」

 野絵留は満足そうにうなずいて、ドアの向こうに去った。

 荷物の整理をしていたのは、元いたアパートを引き払ったからだった。実家に住んだ方が時間のロスがなくなることは知っていたが、独り暮らしをしてみたかったから、家を出ていた。けれどさすがに大学院に入ってからは、それがかえってかなりのロスになるのに気づき、けれどそこを去らなかったのは一つの理由があったから。

「野絵留、彼女は頑張ってる?」

「そうね。他の大学の発掘調査に同行するんだけど、あの子は連れて行くわ。現場の経験もさせておきたいし」

 最初は一つの理由だったが、文学博士号を取ってからしばらくすると、理由は二つに増えた。

「リヒャルトはどうなの? 今年中に神学博士号とれそう?」

「多分ね。それより、僕は理人、リヒャルトなんて英国名で呼ばないでほしいな」

「いいじゃないどっちでも。どちらも本当の名前でしょう」

「理人の方が気に入っているから。日本名で呼んで」

 舌をかみそうなリヒャルトと言う名前は、響き的にあまり好きじゃなかった。

 理人のために置かれた紅茶を一口飲むと、野絵留は煙草に火をつけた。

「リヒャルトも吸うかしら?」

 ふふ、と笑った野絵留に首を振って、理人は足を組んだ。

「タバコは三年前にやめたし。野絵留みたいな人に、どうして直志が惚れるんだか」

 日下部直志。真面目な文豪のような名前の、野絵留の恋人。理人と同じ学部で、今は出版社で働いている、名前のように真面目な青年。理人より一つ下の後輩で、同い年。一浪して聖アンティエに入ってきたのだ。

「イイ男はイイ女に惚れるものなの」

 プカリと音を出すように、白い煙を吐く野絵留を見て、理人は三年前にやめた煙草を見る。

 やめた理由は、どうしても吸わなければならないものではないから。あとは食事が不味いのと、スポーツをすると息切れが早くなったから。十八の頃から吸い始めて、二十三歳でやめるまで毎日吸っていた。一日に吸う本数は大して多くなかったから、やめることができたのかもしれない。

「あの子と話した? 入学してもう二ヶ月経つけれど」

「話してないよ。話すくらい顔も合わせなくなったから」

「でも神学科と考古学科は教室も近いでしょ?」

「近いけど、あっちの方が僕を避けてたら話す余裕もないでしょ」

 ふーん、と言って野絵留は煙草をふかした。

「避けてるって分かるの?」

「あからさまだ。僕の顔を見ると、目をそらして反対の方に行ったりする」

「嫌われたのね、リヒャルト。まぁ、花娃はもともと、人と一線を引く所あるから」

 田村花娃。野絵留があの子、と言うのは今年から聖アンティエ学院大学部に入った一人の女生徒だ。教授推薦という枠で試験を受けたが、その試験の点数はかなりの高得点。おまけに小論文も素晴らしく良かったため、学費が一年間免除になった。来年は来年で、きっと審査があるだろうが。教授推薦枠でもありながら、奨学金をと聖アンティエ側が言ったのは、異例のことだった。

「思った通りの結果を残してるから、私は満足よ。あなたは不満足?」

「まさか」

 紅茶をすべて飲み干したところで、野絵留は煙草を揉み消した。

「お話したいわよね? あの子がいるから、実家に帰ってこなかったんだから」

「そういうわけじゃ……ただ、頑張っているのなら、僕はそれで満足」

 確かに花娃が気になって、結局は実家に帰るという目的の時間は伸びたが、理人の読み通り頑張っているのなら、とても満足と思っている。

 そして野絵留は話を変えるように、そういえば、と言った。

「あの、鶏ガラみたいなのとは別れたの?」

 鶏ガラみたい、と称した相手は理人がこの前まで付き合っていた相手。

 かなり失礼な言い方だが、確かに痩せていた。野絵留は痩せた女が嫌いで、自身も痩せているのに、かなり批判をする。けれど、理人が付き合っていた相手は、野絵留よりも痩せていたので、確かに言い得て妙なのだが。

「あんなの抱いて楽しい? 花娃は結構胸のあたりはふくよかよ。抱きしめるとふんわりしてるわ」

 抱きしめたのか、と思いながら、そのどうでもいい話を終わらせたかった。

「そんな話はどうでもいいので」

「若いっていいわね。まだ二十三になってないなんて。しかも、これから考古学者になるかもしれない、優秀な子。根性もあるし、あれにしときなさいよ」

「彼女にも選ぶ権利が、僕にも選ぶ権利があるから」

 ニヤリ、と笑う野絵留は、人の心を見透かす天才だ。こんなに聡い彼女だから、五十代になるまで結婚をしなかったのだろうと思う。

「気になっているくせに。鶏ガラさんも、だから別れたんでしょうよ」

「野絵留、鶏ガラじゃなくて、恵美。失礼だ」

「別れ話を切り出されて、即別れる、って言ったんでしょ? 気になっている子、いるから?」

 野絵留の言うことに、理人はため息をつく。

 そこまで言った覚えはないし、別れようと言われてすぐに返事をしたわけじゃない。

 国重恵美は大学時代に出会って、三年になった頃付き合い始めた。恵美は将来は結婚を、と考えている人で、大学院に理人が行くことを決めると、嫌な顔をしたがそれでも理人のことが好きだったのだろう。恵美は普通の会社に就職をして、理人とそれから三年ほど付き合った。

 恵美の成績は普通くらい。時々それ以下になることが多くあったが、笑顔が可愛い、いい子だった。優しい性格で、一緒にいると安心できた。だが、一つ思うのは、聖アンティエの英才教育を得て、ただの普通の会社に就職したこと。もちろん学歴はそれなりだし、聖アンティエのブランドが名を聞かせたのか、大して就職活動をしなかったが、すぐに内定になった。

 直志は出版会社をもともと持ちたがっていたから、今は修行中、と頑張っている。今でもその夢を語って、もう少ししたら、といつも話す。聖アンティエは、そういう夢のために頑張る人を多く作るための学校だったと思っていた。けれど恵美のような人も多くいることも分かっていて、それを身近に感じていたから、一緒にいて物足りなさを感じていた。

 きちんと好きなのだが、何をしても満足感を得られなかった、恵美との付き合いを考えていた時、出会ったのが一つの論文。

 文章自体は稚拙。もう少し文章の構成を考えたらどうか、と思うくらいだったが、逆に質問形式で書いてあるその論文は面白くて引き寄せられた。いかにも頭の良さそうな、そういう切り口で書かれていて、理人は自分が書いた本だと言うのに、この論文を書いた人の言うとおりに、書き換えたくなってしまった。

 田村花娃。聞いたことがある名前のような気がして、ある日電車に乗っていて気付いた。

『もう、花娃ってば、どうしてそうなの?』

 トーンの高い声に反応したのは、カエという言葉だった。

 声がする方を見て、髪の毛が肩につくかつかないくらいの長さの、後姿を見る。姿勢がよくて背中がすっきりとしていた。使い勝手のよさそうなバッグに、参考書や教科書が詰めてあるようだった。とても重そうで、たまに持ち上げたりしていた。カエと呼んだその彼女のバッグはと言うと、大して重くなさそうでデザインを重視したようなバッグ。

 その彼女はノートを取り出して隣の彼女に渡した。そして他のノートを落としてしまい、それを拾う。

 その時に見た、ノートに書いてある名前。眼鏡を押し上げてみたそれには、田村花娃、と書いてあった。

 この人が田村花娃か、と顔を見ると、クルリとした綺麗な二重瞼をした、可愛い顔立ちだった。髪の毛も黒いままで、染めてなんていないのが分かる。今時珍しい、と思いながらその彼女をじっと見た。

「どうせ直志から聞いた情報だろうけど、それは間違いだよ。別れ話を出したのは僕だし、すぐに分かったと言ったのは恵美のほうだから」

「あら、そうなの」

「飛躍しすぎ。そういう話は、もうやめてくれるかな」

 じっと見た彼女は理人の視線に気づかなかった。帰りの電車の中だったのもあるし、その日は午後だというのに、意外と人が多く乗っていたから。

「だって可哀そうじゃない。今までの相手がいなくて、寂しいでしょ、リヒャルト」

「そんなことが言いたくて中断させたのなら、怒るよ」

「怒ったところ見てみたいわね。あなた怒らないから」

 理人はため息をついた。本当に頭のいい女性というものは、と思う。

「でも、まぁ、あなたはそこら辺の女じゃ満足しないのよ、リヒャルト。多少頭がよくて、自立して、根性があって、負けず嫌いな感じ? ただの優しい女じゃ、単なる性欲処理にしかならないわ。鶏ガラちゃんを、あなたは結局そういう目で見てたのよ」

 野絵留の言葉に、理人は大きなため息をつく。

 花娃を見て、そしてもう一度家に帰って花娃の論文を読んだ。

 読みやすい、綺麗な字で書かれたそれは、何度読んでも稚拙な文章。もう少し論文の書き方を習った方がいいのでは、と思うほど。

 野絵留は論文を見て、SAレベルをつけた、と言った。スペシャルAは、最高レベルの成績。文章が稚拙な分は、その知識と、隅々まで呼んだことが分かる論文の内容でカバーをしたらしい。

「そんなことない」

「だったらどうして別れたのよ」

「気づいたから」

 最後にきちんと顔を合わせた時に言った、花娃の言葉。

『負けたくないって、思いました』

 最初は結婚がどうのこうの言っていたくせに、たぶん野絵留の言葉も堪えたのだろうが、花娃の目には前とは違う光が宿っていた。何もする気がない、と言っていた花娃が、勉強をすると決めたのは、理人のせいか、野絵留の発破が効いたのか。

「自分と違う道を歩んでいる人と一緒にいても、楽しくないって気付いただけ」

 そうね、と言って野絵留は新しい煙草に火をつけた。独特の匂いが部屋を包む。

「でも、野絵留の言う通り、本当に好きでしていたのか、今はもう分からない」

「あなたみたいに賢い子には賢い子がいいわ。互いに摩擦することもあるだろうけど、でもいつでもいいライバルでいられると思う。私は残念ながらそういう人とは会えなかったけど、この年になって犬みたいに可愛い子と会ったから、よしとしてる。でも、もう少し若い頃、もっと一つのことに情熱をかけられる人と出会っていたらって、思うわね。私たちの家系は情熱の塊で出来てるから。そういう熱いものを、きっと求めるのよ。お義兄さんだって、あの年でこの聖アンティエを息子の夢にかけて作るくらいだから。あなたも夢のある根性のある子が似合ってるかもよ」

 白い煙をプカリとふかして、理人を見る。

「だからね、まだ成功も何もしていない卵の卵だけど、花娃はお買い得物件だと思うわよ」

 花娃の顔を思い浮かべて、溜息とともに笑う。

「ダメだよ、あれは」

「どうして?」

「前に、男なんてただの処理道具にしか女を見てない、とか言われたし。確かにすべて否定はできないしね。とにかく、田村さんは潔癖だから」

「潔癖な子も、恋をすればそうなることくらい分かるわよ。処女懐胎を信じていないくせに、臆病ねリヒャルト」

「ありえないことは信じないだけ。聖母マリアもキリストを生むのに、誰かとセックスはしたはずだ。それが婚約中のヨハネだったか、他の男だったかの違いしかない。僕も潔癖な男じゃないし、手をつなぐだけの付き合いはできないから。田村さんとの付き合いなんてダメだと思ってるだけ」

 臆病なんかじゃない。ただ、男として潔癖な人と付き合うことはできないだけ。

「確かに僕は怒らないけど、聖人でもないよ。付き合うならそういうことはするだろうから」

 理人が言うと、野絵留は煙草を揉み消した。

 理人と呼んでほしいのに、いつもリヒャルトと呼ぶのはこの人の頑固さだろう。

「あっそ。でもリヒャルト、一応言っておくわね。恋ってするものじゃないの」

 理人に顔を近づけて、最後の息をふーっと顔にかけた。

 久しぶりの煙草の煙に、思わず噎せる。

「落ちるのよ、バーカ」

 そう言って理人の額を指で弾く。

 それから笑ってその場を去る野絵留を見て、大きくため息をつく。

「誰が馬鹿だ」

 理人はそう言って自分の額を撫でる。

 時計を見ると意外と時間がたっていて、理人は立ち上がって残りの荷物を片付けようと思った。

 引っ越しをしたのは結構前なのに、院の方と学校の運営のことで忙しくて出来なかったのだ。

 そして理人の顔を見て逃げる花娃を思い出す。

「あんな反応をしているから、どうせ近づけもしない」

 立ち上がって、そしてカップを置きっぱなしにしているのを見て、理人はまったく、と呟いてからカップとソーサーを片づけた。野絵留はいつも理人の前では片付けをしないのだ。

 明日はまた学校だと思いながら、理人は花娃の顔を思い出してから消せないでいた。

 

 

 神学科と考古学科は本当に近い。史学という共通の学科を専攻するからだ。

 だから、花娃と会う確率はとても高いし、理人が院に行く日は必ずその姿を見るのだが。

 きっと彼女も油断していたのだろう。廊下ではち合わせた。理人が避けると、その避けた方に、そして花娃が避けると理人がその避けた方へと行くので、理人は思わず笑って花娃に言った。

「気が合うね」

「そうですね」

「カフェで話でも?」

「……また相良教授に頼まれたんですか?」

 前に野絵留から頼まれて、聖アンティエに、と言ったことがある。花娃はそれを根に持っているらしく、理人は苦笑する。そして首を振って、花娃を見た。

 花娃の制服姿を初めて間近で見て、きちんと着るタイプなのだな、と思う。制服をだらしなく着る生徒も中にはいるが、花娃はそう言うタイプではないらしい。

「制服似合ってる」

「似合わない人、います?」

「そうだね。独特な制服だから、似合わない人もいる」

 花娃は少し辺りを見回して、理人をみた。

「どうした?」

「……あなたといると、目立つんですよ。相楽理人って、学院内でかなり有名。わざと避けてたのに」

 理人は苦笑して花娃を見て、別にいいと思うけど、と言った。

「注目されてるのは僕だけで、君はされてない」

「全くされてないわけじゃないです。私は教授推薦だから」

 有名なされている相楽理人。

 聖アンティエの高等部から入学している理人は、模範生として生徒会などに入らされていた。高校、大学ともに常にトップの成績を維持していて、その外見も相まって理人は誰にでも顔を知られていた。

 けれどトップを、と言われたのは父から言われたことだった。父は模範生になることを強く望んだし、なによりそうすることを理人は良しとした。なぜなら、この学校は理人が望んだものだから。

「ここで話をしていると、余計に注目されないかな?」

 理人が言うと、じゃあ、と横を通り過ぎようとした。

「君と話がしたいんだけど」

 花娃が理人の隣で足を止めて、そして見上げてきた。

「いいかな?」

 そう言って周りを見ると、確かにこちらを見られている気がした。と言うよりは見られていた。

「第二図書室の、二階の左奥のテーブルで待ってる」

 そう言って花娃の横を通り過ぎて、もともと行くはずだった方向へ歩き出す。

 花娃は来るだろうかと思いながら、自分の荷物を取りに向かった。

 大学院の第二図書室は専門書ばかりをそろえた図書室だ。よっぽど研究熱心か、興味がなければ来ない場所。しかも二階の左奥は、特に、だった。

 自分の鞄をもって、図書室へ向かう。途中で、何度も見られているような、そんな視線を受けたが、長年のことで気にならなくなっていた。初めは見られていることに抵抗を覚えて、そして苦痛だったが、慣れてしまえばそういうことはなかった。ただ見られているだけで、彼らは危害を与えない。それに、初めは勉強の類を聞いてくるクラスメイトもいたが、理人が注目を集めて、目立つようになると、声もかけられなくなった。

 別に友達がいないわけではないし、声をかければ話すが、それ以上はなかった。孤独を感じたことはないけれど、勉強に集中できるのはよかったと思う。それに、お節介な友達も当時はいた。

 そうして図書室についてから階段を上がる。左奥のテーブルは案の定使われていなかった。この場所は主に神学の専門書があるため、ほとんど誰も来ない。花娃も来ていなくて、理人は鞄を椅子に置いて、専門書の一つを取り出す。宗教を勉強するなんて、と思う人もいるだろうが、その歴史を主に専攻しているので、宗教自体を勉強しているわけではなかった。なので、博士号を取るならば、そちらの方面で取ることになるだろうと思う。

 今年度か来年度には卒業を、と思いながら専門書を開ける。開けたそれは、特別な専門書だった。

 そうしたところで、誰かが階段を上がってくる音が聞こえた。窺うように現れたのは花娃で、理人は笑顔を浮かべて花娃を見た。

「隠れスポットみたい」

「誰も来ないから、集中したいときはいいと思うよ」

 本を閉じて、花娃が座るのを見る。花娃は座ってから、バッグを横に置いて、理人を見た。

「天才で穏やかで性格もいい、相良先輩。それは良い言われ方だけど、陰ではなんて言われてるか知ってます?」

「教えてほしいな」

「顔が良くて、スタイルも良い、童貞の相良先輩。絶対童貞だと言う人と、違うって言う人がいますけど」

 それに思わず苦笑して、花娃の言うことを聞いた。

 そんな噂は始終聞いていた。けれど、無視をきめていた。

「多分知っているだろうな、と思うけど、無視を決め込む相良先輩は凄い、って。この前、樋川さんって人が言ってましたよ」

「その子はなんて言ってる? 僕は童貞だって?」

 花娃は首を振った。

「思ってないみたいです。っていうか、私も思ってないし」

「正解、違うよ」

「……こういう話をするために来たんですっけ?」

「この話を始めたのは君だけど?」

 花娃は何も言わなかったが、納得した顔をしていた。

「学校は慣れた?」

「ある程度は。ここの院って本当に、自主性がないと繰り上がれないみたいですね」

「そう。それに出る時は難しいから、きちんと勉強をしないと、やめる羽目になる」

「やめた人、います?」

「たくさんいるよ」

 理人がそう言うと、そうなんですね、と花娃は言った。

 大学まではある程度の干渉をする。それでも、やめる人はいる。けれど院は、目的を持っていないと、卒業は出来ない。ただ書いただけの論文は撥ねられるし、自分で自分を管理して受講しないとならないため、結構大変だった。

「この院で、二つ目の博士号を目指しているの、篠宮さんだけなんでしょう?」

「ここでは篠宮って言わないでくれる? 誰が聞いているか分からない。相良、で」

 理人は母方の姓を名乗って聖アンティエにいた。篠宮と言えば誰だって血縁者だと分かるだろう。特徴のある名字は覚えやすいから。

 花娃はまた、わかりました、と言って理人を見る。

「今度、発掘調査に行かせてもらいます」

「よかったね。あれは面白いよ」

「楽しみです」

 花娃はようやく笑って、嬉しそうな顔をする。

 勉強はしたくないけど就職もしたくない、と言った花娃だったから、理人はその表情を見てホッとした。

「樋川さん、相良さんのファンみたい。遠目で見て喜んでるし、何か目の色が好きみたいですよ。そういう対象で見られることも多いでしょう?」

「ある程度は。でも、ただその人たちは偶像を見ているだけだよ。本当のところを知ったら、どう思うか分からない」

 前に付き合った恵美だって、学校では一度も話しかけなかった。

 よく考えれば、結婚を望んでいたにせよ、まるでやるだけの友達だったような気がする。

「樋川さん、可愛い子ですよ」

「だから?」

「……嫌な感じ。そういう態度、よくないと思います」

「もしその子を君が紹介して、付き合ったとする。でも、彼女はきっと僕に近寄らない。周りの目が、怖くなるから」

「引け目を感じるって、事ですか」

「この前まで付き合っていた人がそうだった。彼女が卒業してからは普通に会うようになったけど、でも、結局はデートもせずに、会ったらセックスをするだけだった」

 恵美との関係を思うと、本当に中身のないものだったと後悔する。

 彼女を悪く思うつもりはないし、別に嫌いになったわけじゃない。ただ、時間が空しく過ぎた、と後悔だけが残った。

「カトリックって、避妊しないんですよね? そういう危機はなかったんですか?」

「僕は避妊してないよ」

「……は?」

「彼女はしてたけど、僕はしてない。彼女はカトリックじゃないからね」

 花娃が眉間にしわを寄せた。その表情を見て笑うと、花娃はあのね、と言った。

「彼女にばかり負担をかけるのは、よくないと思いますけど。っていうか、付き合うイコール妊娠の可能性大ってこと?」

「だから、先にそう言うけどね。それでも付き合いたい、と言ったら相手に気をつけてもらう」

 そこで花娃は、待って、と言った。

「こんな話に、どうしてなったんですっけ? 私は振ってないですよね?」

「恋愛話をしたのは君の方からだけどね」

 花娃は面白い、と思う。まだ若いからか、反応が素直。

 花娃はお買い得物件だけど、と言った野絵留の言葉はあながち嘘ではないだろう。

「卒業したら、何をするんですか?」

「聖アンティエの講師になるつもりだけど」

「なにかの賞は、目指さない?」

「目指すよ。でも、僕よりも他の生徒に頑張ってほしいけど。僕はこの学校を創った側に入るから」

 そうでしたね、と言った花娃を見て、理人は言った。

「だから花娃さんにも、頑張ってもらわないと」

「私?」

 理人が頷いて花娃を見ると、花娃はそうですね、と言った。

「ある程度は、がんばりますよ。でも、ダメそうだったら、諦めますから」

 外を向いてそう言ったが、きっと彼女は頑張るだろう、と理人は思った。

 一度目指したら根性がありそうだと思ったから。

「花娃さん、君は彼氏はいる?」

「……何を急に」

 花娃の戸惑った顔をみて、可愛いと思う。もともと、可愛い顔立ちをしているのだから、誰かいたって可笑しくはないだろう。勉強ばかりしているタイプでもなさそうだったから。

「僕だけに聞いておいて、君は話さないつもり?」

「……いませんよ、今は。前はいたけど、別れて正解です」

「どうして?」

「私のこと、可愛くないって、言ったから。それに他に好きな人できたみたいで。私はまだ勉強を続けるし、これでいいと思います」

 可愛くない、と言われたのは確かに可愛くなかったのだろう。理人もそう感じた時もあった。

 けれど今はそんな風に感じない。あの時はきっと彼女自体が頑なになっていたからだろうと思う。

「甘える相手は、いらない?」

「そんな人、いたら紹介してください」

「いいよ」

 花娃が笑って理人を見た。

「期待しないで待ってます」

「していいと思うけど。いい物件だと思うよ」

「物件って、人を物みたいに」

 花娃は目を落として、両手を組んだ。その爪は短く切れられていて、ピンク色で綺麗な形をしていた。健康そうで、将来どうなるか分からないが、きっと何かをやり遂げるような、そんな一人の女性。

「僕はどうかな。将来は期待していいと思うけど」

 花娃は顔を上げて驚いた顔をした。その顔を見て理人は笑顔を向ける。

「……私、やるだけの女にはならないですよ」

 そう言ってムッとした顔をした花娃は、理人を見る。

「そんな風に扱わない」

「やるとき避妊しない男なんて、やです」

 外を向いて拗ねたような顔をする花娃は、可愛いと思った。

 こんな顔もできるのか、と思って苦笑して、花娃に言った。

「いいよ、しても。その代わり、人前でよそよそしくしないで、きちんと付き合っているように、僕と学校でも過ごすなら」

「……意味分からない。付き合ってたら一緒にいたりするの当たり前だし。それと、避妊するとでは、軽すぎるとおもいません? っていうか、私のこと、好きだから言ってるんじゃないですよね?」

 花娃が言ったことを頷きながら聞いて、理人は自分の制服のポケットから、あるものを取り出した。

 それをテーブルに置いて、花娃を見る。花娃はテーブルに置かれたそれをみて、瞬きをした。

「君のことは気になっていた。神に懸けて、嘘はつかない」

 理人はそう言って、花娃の手を取った。それに驚きを隠せないようで、握った手をじっと見る。

 気になっているのは本当。花娃を見るたびに、よそよそしくするたびに、本当はいら立っていた。

 けれどそういうのを態度で出すわけにはいかないし、なによりそんな自分に驚きを覚えていた。

「い、きなり、そんなこと言われても、すぐには。っていうか、嘘ついてないんですよね?」

「ついてないよ」

 疑うような目つきの花娃に、理人は微笑んで見せて、先ほどとった本の一番後ろを開く。

 その本は細工がしてあって、外観は普通の本だが、後ろのページから深さ三センチほど、十センチ四方に切り抜かれていて、中に何かを隠すことができるようになっている。これを見つけたのは理人の父で、面白がってそのまま図書室に置いたのだ。

 まさかこれを使う日が来るとか、そんなこと予想もつかなかったが。

「付き合ってくれるのなら、これを僕に直接返して。この本に入れておく」

 カシャリと音を立てるのは、いつも持っているロザリオだった。

 花娃はその様子を見ていて、無言のままだった。

「明日、もしこの中にこれが入っていたなら、この話はなしにする。普通どおり接してくれていいよ」

 そう言って一度花娃を見て、理人は言った。

「いいかな、花娃さん」

 そう言うと、花娃は理人を見る。頷きも何もしなかった。

 だが、今頷いてほしいわけではないため、理人はそのまま立ち上がって自分の鞄を持つ。

「あの、話したかった内容って、これですか?」

 ようやく口を開いた花娃がそう言ったので、そうだね、と答える。

「今日の目的は、これかな」

 花娃が見上げて理人を見たので、理人は笑顔を浮かべた。

「では、また。いい返事を待ってる」

 花娃は視線を外して、理人はそのままその場を去るため歩き出した。

 花娃の返事は、と思うときっと断るだろう、と勝手に想像する。

 しばらく恋愛はしたくない、と言うオーラが出ているように思えたからだ。

 だから、こんなことは予想もしない。

「まって!」

 図書室を出て、しばらくしてから、花娃が後ろから理人を呼んだ。

 その手には、ロザリオが握られていて、理人は予想が外れたことを知る。

 そうして近くまで来た花娃を見て、その手のロザリオを受け取った。

「約束して下さい。私を好きになってくれることと、優しくしてくれること。今はそんなに好きじゃないだろうから、最低でもそれだけは、約束して下さい」

 その言い方に思わず声を出して笑って、花娃はそれが不本意そうに理人を見る。

「それは当たり前のことだから、約束も何もないけど。避妊はいいの?」

 理人がそう言うと、花娃は理人の肩を叩いた。

「そういうことも当たり前ですから!」

 花娃の台詞に頷いて、わかった、と言って。

 意外と楽しそうだと思った。

 これまでの人よりも、きっと花娃の方が有意義に過ごせそうだと、そう思った。

【2013/10/03 06:26】 | Uniform | トラックバック(0) | コメント(0)

Uniform:3

「甥が失礼したようで、悪かったわ」

 後ろから声をかけられたのは、いつもうるさいオールドミスの相良野絵留だった。

 甥、と言うのはきっと篠宮理人のことだろう。

「別に、なんとも思ってませんから」

「思ってなかったら、そういう目をしてくるのね、あなた」

 結局何も答えずに、喫茶店を後にした花娃は、自分のアパートに帰ってからさんざん泣いた。

 自分の考えが悪いのは分かっているけれど、正論を言われてそして自分の考えが駄目だと、真っ向から言われたような気がした。

「まぁでも、あの子にあそこまで言わせた人、あなたくらいだから。普段のあの子は穏やかで、感情が揺れない子なの。私に電話をしてきて、本当に後悔していたわ。私もだけど、生粋のクリスチャンだから、懺悔でもしてるかも知れないわね」

「相良教授も、聖アンティエに、って言うんですか?」

「そうね。何もしないよりは、自分の得意分野を広げて見てほしいとは思うけど。考古学を専攻したいなら、聖アンティエはお金持ちだから、発掘現場にだって行かせてくれるわ。私だって、結構有名なの、知ってるでしょ?」

 相良野絵留と言う名前の考古学と史学を専攻とする教授は、世界でも有名な研究者だ。花娃の大学の売りでもあるし、この人の講義をうけたいから、と受験する生徒も少なくない。

「本当に聖アンティエに行くんですか?」

「ええ。聖アンティエが出来た頃、私も教授として行こうと思ったけど、あの子がもう少し有名になってから来てください、なんて言うから。本当に、失礼な甥よね」

 ふふ、と笑う相良は、確かにオールドミスだが、綺麗な人だった。理人と目の形が少し似ている。

「結婚して主婦になりたいんですって?」

 その言い方が癇に障る。花娃は負けずに言い返した。

「相良教授のような年になるまで、結婚しないなんてことになりたくないですから」

「よく言うわね。これでも可愛い恋人がいるのよ。あの子と同じ年の、ね」

 優雅に腕を組んだ相良は、驚いた花娃を余所に、笑って見せた。

「私の部屋まで来て。お茶くらい出すから」

 いらない、と突っぱねたかったが、軽く睨まれたので、渋々行くことにした。

 相良の部屋に入ると、花の香りがした。いつも同じ香りで、そしていつも写真立てが多く置いてある。

 まるで外国のような雰囲気の部屋に初めて入ったときは、居心地が悪かったが、慣れるととてもいい部屋に感じる。

「座りなさいよ」

 言われてソファーに座って、目の前に温かい紅茶を置かれる。

 向かい合って座って、綺麗に口紅で彩られた唇がにこりと笑う。

「聖アンティエに、行く気はない?」

「……何も考えていないような私が、行くところじゃないでしょう?」

「勉強をしたくない?」

「勉強自体は嫌いじゃないし、してもいいけど、学費とかそういうものはどうするんですか? 私の家は二人とも教師で、一人っ子だけど、聖アンティエに行くような学費は出してくれないと思います」

 聖アンティエは学費もそれなりで、今も私立校に通う花娃に、さらに私立校に通い制服代をだして、とは言えなかった。それに、一度落ちて落胆されている。

「確かにそうね。学費の面だけならともかく、制服ね。私が親御さんに話すわ。許可が出たなら、受けなさいね」

「学費とかそれだけの問題じゃないですから。手続きだって、面倒だし」

 花娃はうつむいて、目の前に置かれた紅茶を見つめた。

「紅茶、冷めたら美味しくないわ」

 相良に言われて、花娃は紅茶のカップを手に取る。それを一口飲むと、紅茶独特の美味しさが口の中に広がった。フレーバーはバニラ。前に飲んだ紅茶のフレーバーはキャラメルだった。

「リヒャルトは本当に頭がいい子よ。あなたのことを話したら、目を輝かせた。そして、知っている人だとわかったから、話したかったのでしょうけど。それと、あなたは女に近づく男は警戒しろって感じだけど、甥は大丈夫よ。見た目もだけど、意外と清廉だから」

「リヒャルトって?」

「あの子の名前だけど? 英国での名よ」

 理人とリヒャルト、響きがよく似ていた。

 おまけに相良は、理人のことを男として警戒しなくてもいいと言った。それだけ危険性のない、本当に清廉で純粋なら、騙されやすそうだ。

「清廉、ってまさかあの年で童貞ですか?」

 ありえる話だと思ったが、相良はあからさまに眉間にしわを寄せた。

「そんな話していたかしら。リヒャルトが童貞だなんてことないわ。あれは本当に、あなたに負けないリアリストよ。しかも意外と大胆な冒険家。興味を持ったことはなんでもやるの」

 にこりと笑ったその表情から、理人のことを本当に信じているのが分かる。

「今は聖アンティエに鞍替えする準備中だから、あの子の実家に住んでるの。たまに帰ってくるけど、時々、身体から違う香りがするわ」

「清潔そうな顔して。性質の悪い女の人みたい」

「あなたはそういうところを直しなさい。そういうあなたこそ、性質の悪い女だわ。人の文句ばかり言って、努力はするのにそれを生かそうともしない。したいことがないなんて、それこそ人としてどうかと思うわ」

 花娃は相良から言われて唇を引き締めた。

「少しはやる気を起こしてほしくて、私は学校を変えてみないか、と誘ってるの。教育者として心配だわ。もちろん、理人も優しい性格だし人を放っておけない性格だから、あなたのそういうところ、心配しているのかもね」

 紅茶を飲み終わったらしい相良は、カップを持って立ち上がった。小さな流し台にそれを置くと、花娃の前にもう一度座った。

「もしも、聖アンティエを受けると仮定しての話だけど、私あなたに投資してもいいと思ってるの。もちろん入学試験は受けてもらうし、裏口とかそういう話は全くなしよ。学費を投資したいと思ってるわ」

「……結構多額でしょう。それに聖アンティエのカリキュラムも、一つの博士課程を五年以内で履修をしなければならなかったはずです。五年もかかってしまったらどうするんですか?」

「あの学校はね、推薦入試と学業が優秀な生徒は授業料が全面的に免除だけど、もう一つ免除になる方法があるの。それは教授推薦。大学院にだけ許された制度らしいけど、学費はもちろんのこと、制服も支給される。だけど、それだけの結果を残すようでなくてはならないの。リヒャルトは教授推薦で大学院に入っているから、授業料は免除。それなりの結果を残してるのよ」

 それなりの結果、と言うのはどれだけのものか分からない。

 けれど、相良がそれを花娃に、と言うならそれこそ一大事のような気がする。

「裏口とかコネじゃないんですね、あの人」

 相良は笑って、知ってるかしら、と言った。

「ある文学賞のノンフィクション部門で、リヒャルトは論文を出したの。それで、大賞を取って本も出ているわ。名前はペンネームで、リヒャルト・セリンガム。一度教本として使ったけど、あなたの感想論文はとてもよかったわ」

 花娃は何度も面白くて読んだ本を思い出す。

 史学と日本語、そして文化についてのことを詳しく、そして読みやすく書いた本だった。

 こういう考えもあるのだ、と思いながら逆に質問形式で論文を書いたのを思い出す。論文を書きながら、壮年の外国人を想像していた。

 そして父も、リヒャルト・セリンガムの本を絶賛していた。

「外国人だと、思ってました」

「リヒャルトはイングランド人でもあるから、あながち間違ってないわね。私、その時の論文のコピーをリヒャルトに読ませたわ。とても面白くて、ただの感想文にしておくには、惜しいって」

 それなりの結果を残すというのは、そういうことなのだろうか。

 何かの賞を、と言われたら、花娃には無理だと思う。

「あの子は特別なの。賢いし、勉強ができるだけじゃないから。ただ、推薦するからには脱落せずに、きちんと博士号をとるだけでもいいのよ。その間に、あなたの中で何かが変わってくれるかもしれない」

 何かが変わるなんてあるだろうか。

 それよりも理人のことを聞いて、裏口だとかコネだとか、そういうことを思っていた自分が恥ずかしくなる。

 世間に認められる賞を取るくらいだから、彼は本物なのだろう。

「先生は、私が博士号を取ることができると思います?