sweet words of love.
こちらは美珠が書く、恋愛小説ブログサイトです

Lipstick on someone's collar:2

「今日からよろしくお願いします、桐嶋副支社長」

 秘書課に配属された初日、いきなり副支社長についてくれ、と言われて緊張した。

 入社時からよく知っているが、細かいところまで知らない。たとえば性格とか、食べ物の好みとか、どんな感じで仕事をしているのか、など。

 そう思いながら、恋愛じゃなくて仕事なのだ、と思って背を伸ばす。

「今日の予定は?」

 低い声で言われて、手帳を開く。仕事用に一冊持って置いて、と言われたのは課長になった佐々木京香から。みっちりかけるスケジュール帳を開いて、口を開く。

「午前中は書類の整理と、経理部門の部長が、お話しがあると。午後からは定例会議で、各部門の部長と課長が来られますので、時間厳守でお願いします。それから、支社長が午後の遅い時間から社を空けられますので、以後よろしく頼むとのことでした。あと、情報管理部門の部長が、相談を、と先ほど言われていて。他にも、今回動いた人事の件で、人事部門の課長、笹田が書類に不備がある、と言っていまして。あとですべて持ってくる、と伝言を受けました」

 なんとか本日の予定をすべて言えた、と思ってスケジュール帳を閉じる。

 頬杖をついた副支社長、桐嶋藍獅は椅子に座ったまま、じっとこちらを見上げる。

「それ、全部俺にやれと?」

 全部やれと? と言われて、正直戸惑う。どれだけ時間がかかるのかよく分からないが、どう答えていいかわからないので、一応笑顔を浮かべて、はい、と言った。

「ご都合悪ければ、後日でもよろしいかと思うのは、人事の不備の直しくらいですが」

「……」

 そこで沈黙してしまって、どうして良いかわからない。変な油汗が出そうで、背に力を込める。

 人差し指でコツ、コツと机を弾いて、溜息をついてこちらを見る。

「今日は予定がある」

「……は、あ、はい、どのような?」

 聞き返すと、桐嶋はこちらを見てから、にこりと笑う。

「何だと思う? 神田」

 男らしい低い声で、初めて名を呼ばれた。これできちんと会うのは二度目だが、これからずっと顔を合わせるのだ、と思う。そう思うと琳は心の準備をしなければ、と思う。

 仕事ができるこの人に、失望されたくなかった。

「プロレス観戦、でしょうか? もしくはその関連の番組があるとか?」

 桐嶋は格闘技を見るのが意外と好きだと、そういう情報を佐々木から聞いていた。

「違う」

「では、野球観戦、もしくはサッカーの番組? あとはゴルフ、とか?」

 スポーツ観戦もある程度好きで、早く帰りたいと言う日がある、とも聞いていた。

「違う」

「では、その、デート? とか?」

 周りの噂で、女性関係に不自由してない、と聞いたことがある。確かに不自由しなさそうな容姿をしている。支社長篠原よりもややいい体つきをしていて、スタイルがいい。何より背も高くて、足も長くて、というところを見ると、誰もが放っておかないのが分かる。

「俺はこの前、女と別れたばかりだ」

「……そうですか……失礼しました」

 本当に失礼なことを聞いたな、と桐嶋の口から別れ話を聞いて思った。やはりこの前まで隣に誰かいたのだな、と思って、噂はあながち嘘じゃないかも、と思う。

 そうしてまた沈黙して。当ててもらうのを待っているような気がして、けれど思いつかない。視線を巡らせると、オフィスの電球の一つがチカチカしていることに気付く。それに気づくと意識はそちらに行ってしまって、琳は桐嶋を見た。

「すみません、あの電球、換えてもよろしいですか?」

 琳が言うと、桐嶋もそちらを見る。

「そうだな、換えてもらうか」

 琳は手持ちの社内電話をかけた。するとワット数を聞かれたので、そこまで言わなければならないのか、と思ったが、分かりました、と電話を切った。

「どうした?」

「ワット数を知りたい、と言われて。ちょっと確認します」

 桐嶋は無言で頷いたので、琳は一度オフィスを出た。すぐ近くに備品室があって、そこに何があるのかなんて、前日に見て把握していた。そこから脚立を取り出して、桐嶋のオフィスに戻る。

 ドアを開けて入って、桐嶋は目を丸くしたが、琳はそれに首を傾げるだけで応えて、脚立を開いてその上に登る。

「お前、何してる?」

「ワット数の確認ですが? 申し訳ありませんが、電気を切って頂けますか?」

 桐嶋が琳を見たまま電気のスイッチを切った。それを確認して、脚立の上で足をかけて、電球を覆うカバーを取ってから、電球を取った。

「百ワットみたいです」

 琳はそう言って、脚立に足をかけたまま社内電話でワット数を指示した。すぐに換えに来ると言われたので、電話を切った。

「エロいことするなよ」

「……どこがです?」

 エロいと当初から言われて、それが不本意だと分かっているだろうに、これで二度目だった。

 脚立から降りて、それを畳んでいると、その横から脚立を奪われて、溜息をつかれる。

「意味が分かりません。ただ脚立に乗っただけで、どこがエロいというんですか?」

「タイトスカートで脚立の上に乗るなよ。よっぽど足に自信があるんだな」

 タイトスカートで乗るな、と言われてそして気付く。

「見えました?」

「何が?」

「下着、とか」

 思わずスカートの裾を引っ張って、足を隠す。しかし丈には限界があるので、これからはタイトスカートをよしておこうか、と思ってしまった。

「見えてないが、足は太ももの半分は見えてた。恥ずかしいのなら、もうするなよ。管理には俺が注意する」

「何を注意するんです?」

「ワット数くらい、把握しとくように」

 脚立を持ってオフィスを出て行く桐嶋を見て、は、と気付いて後を追う。

 上司に片付けをやらせてしまった、と思って、上質なスーツを着ている後姿を見る。

「副支社長、片付けは私がしますので!」

 琳が言うと、後ろを振り向いた桐嶋、呆れた顔を向ける。

「ここまで来ておいて?」

 倉庫前まですでに来ていて、桐嶋はそのドアを開ける。

「場所、分からないですよね? 返しておきます」

「場所とか関係ないの知ってる。離せよ、神田」

 脚立を持っている桐嶋の腕を掴んでいた。が、琳は離さなかった。

「副支社長にこんなこと、あの」

「させたくないなら持ってくるなよ」

 そうして倉庫に入ろうとする桐嶋が腕を解いた。

「二人とも、何してる?」

 後ろから男の声が聞こえて、琳が振り返ると、課長の佐々木と支社長の篠原壱哉がいた。

「藍獅、なんで脚立持ってるんだ?」

 やはりそこを突っ込まれて、琳は脚立を持った桐嶋を見る。桐嶋はそんな琳を笑って見て、篠原に身体を向けた。

「神田がいきなり脚立持ってきて、電球換えようとしたんだ」

 佐々木は目を丸くして、篠原は苦笑して琳を見る。

「それは、大変だったね、藍獅」

 琳を見ながらそう言うのがどうしてなのかわからない。

「神田さん、その恰好で脚立に乗らない方がいいと思うよ」

 篠原はそこで言葉を切ってにこりと笑う。

「そうね。タイトスカートはちょっと。パンツスタイルだったら、ね」

 佐々木も苦笑してそう言った。

「でも、神田さん人事部でも結構電球換えてたらしいものね?」

 佐々木がそう言って、綺麗な唇を綻ばせる。

 確かにそうだった。人事部のオフィスに管理が来るのがなぜかいつも遅かった。電球一つ換えてもらうのに、二時間くらい来なかったこともある。だから琳は待つよりも動いた方がいいので、自分で電球を交換していた。

「タイトスカートで?」

 篠原がそう言って琳を見たので頷いた。

「毎回、足見せてたのか?」

 桐嶋が琳の足を見る。桐嶋の目線が、足に行ったのを見て、琳は一歩後ずさる。

「そ、そんなわけないでしょう! 足を見せるために、電球交換をしたわけではありませんから。そんな、そんな目で見ること自体、不真面目です」

 いったいどこを見ているのか、と思う。足を見せるために電球交換をしていたわけではないし、きちんと真面目な理由があったのだ。

「何でそこで切れるんだ?」

「切れてないです」

 入社時から目が離せなかった人は、琳とは違っていた。何度か会っただけでも分かる。

 そうして、思わず吹き出したように笑ったのは篠原だった。次いで佐々木も笑って琳を見て、桐嶋を見る。

「気の毒に」

 桐嶋を見てそう言ったので、何が気の毒なのか、と思いながら支社長、篠原を見る。

「神田さん、各部署の社員には社員の仕事がある。確かに電球が切れていて、気になるだろうけど、君の仕事をそれだけのことで煩わさせたくない。気がついてすぐ行動するのはさすがだけど、管理の仕事は管理に任せてほしい」

 ピシャリと言われて、はい、と頷いた。

「と、桐嶋は後で注意するつもりだったと思うけど」

 篠原がにこりと笑って琳に言った。

「あと、こういう仕事をする暇があったら、俺が今日、五時に退社できるように動いてくれ。いいな? 神田」

 脚立を片づけながらそう言われて、結局桐嶋にさせてしまった、と思う。

 それにしても。

「五時、退社ですか?」

 いくらなんでも、と思う。琳だって五時退社を果たしたことはない。

「僕も、五時退社予定だから」

「私も五時には帰りますよ。神田さん入って来たけど、結局は石田さんが出て行ったし。神田さんに働いてもらわないと困るわ」

 そこでピンと来たのは、この人たちはきっと夜に食事か何かをするのだろう、ということ。

 だから予定がある、と桐嶋は言ったのだ。

「わかりました、お任せ下さい。がんばりますので。誰かと、お食事、ですよね?」

「食事?」

 聞き返したのは篠原で、琳は真面目に、はい、と言った。

「予定があるとおっしゃってましたので、誰かとお食事、かな、と。勝手に女性の方とだと思ったんですが」

 琳が苦笑気味に言うと、本当に可笑しい、と言うような感じで、篠原が笑う。

「篠原さん、笑ったらダメですよ。大体、桐嶋さんに神田さんをつけると言ったのは、篠原さんですから」

 と言いながらも、佐々木も、さも可笑しいと言った感じで笑う。しかも、二人とも桐嶋を見て言うから、琳は首を傾げてしまう。

「お前たち、覚えてろよ。神田、勘ぐりすぎだ。もっと素直に考えろ」

 余計なこと、と言われて、デートのことだ、と思った。琳は顔を伏せて、桐嶋に謝る。

「いい意味でも、悪い意味でも、真面目すぎる」

 呟いた桐嶋の言葉に、ズキリ、ときた。

「とにかく五時ダッシュ、がんばりましょう、神田さん」

 佐々木から言われて顔をあげて、はい、ともう一度返事をする。

 いい意味でも、悪い意味でも、真面目。

 よく言われるセリフに、最近傷ついたのは、一週間前だった。

 異動を告げられて、三日後のことで、琳はその日、落ち込みに落ち込んで。

 泣くのはやめようと、これくらいのことに振り回されるのはやめようと、思ったのはこれも三日前。

 けれど、いつも見ていて憧れを持っていた人から言われたセリフは、いつになく痛かった。

 

 

「副支社長、五時です」

「これにサインしたら終わり?」

「はい、終わりです。お疲れ様でした」

 やや右上がりの文字は、本社提出用のためローマ字で書かれている。書類を琳に差し出して、それを受け取った。確認して、ファイルに入れて、あとで郵送する手続きを、と思っていた。

「神田も終わった?」

「はい、終わりです」

「この後、暇か?」

「いいえ、予定があります」

 琳が言うと、桐嶋が椅子に座ったまま怪訝そうな顔をする。

「佐々木は予定がないと言ってたけど」

「確かに予定はないですけど、個人的に社に残って調べたいものがあります」

 この人はどうして自分の予定を知っているのか、と琳は内心首を傾げたが、それでも笑顔で対応した。

「今日しなければならない?」

「秘書課初勤務ですので、まだ慣れないことが多いですから。それよりも、副支社長は予定がおありなんでしょう? お帰りになられては?」

「佐々木が五時ダッシュ、と言ってただろ?」

「私はできませんので」

 琳がそう言うと、あからさまにため息をついて、腕時計を見る。青いフェイスの時計は、誰もが知る高級ブランドの時計だった。さすがだな、と思いながら琳は一歩下がって頭を下げる。

「失礼します」

 琳が去ろうとすると、名を呼ばれて振り向く。

「神田、調べ物は今度にして。仕事の予定が入っていたのを忘れていた」

「今から、ですか?」

「今から、社の重役たちと会うことを、言うのを忘れていた。付き合えるか?」

 秘書課に来て初めての勤務。まだ分からないことだらけで、実は失敗も何度かあった。けれど、大したものじゃないから、と桐嶋は何も言わなかった。今日の振り返りをして、よく使う内線番号をメモしてから帰ろうか、と思っていたのだが。社の重役ということは、部長クラスもしくは課長クラス。ついて行かないわけにはいかなかった。

「わかりました。ロッカーに戻って、荷物を取ってきます。直帰でよろしいですよね?」

「ああ」

「では、ロビーでお待ちしています」

 琳はもう一度頭を下げて、秘書課のオフィスへ向かった。オフィスは支社長室、副支社長室と近く、人数も少ないので綺麗に整頓してあった。特に課長の席は綺麗にしてあって、感心するほどだった。人事部の時は琳がよく片付けをしていたのだが、すぐに散らかってしまっていた。

「お疲れ様、神田さん。今日はいきなりで悪かったわね」

 にこりと笑った光る唇。佐々木は長年秘書課勤務だが、さすがにそれは頷けるような美人。そして何より配慮が上手で、社長クラスの二人が頼りにしているのが分かる。それに、親しいのだろう。篠原と桐嶋を、さん付けで呼ぶのはこの人だけだった。

「いいえ、勉強になりました。副支社長、仕事が早いので、驚きました」

「昔からよ。篠原さんは頭で動くタイプだけど、桐嶋さんは勘で動くタイプだからね。時々、突拍子なのが玉に瑕だけど。ファインプレーが多いから、すごいのよ。この前なんか、マーケティング部にちょっとした助言をしたら、それが好評で売り上げが上がったのよね」

 その話は聞いたことがあった。ただ、関連商品に関連グッズをつけただけなのだが、その関連グッズをつけるとコストがかかる、ということで揉めていたらしい。けれど、最後にゴーサインを出したのは支社長で、結局はそれで売り上げが格段に伸びた、ということ。そのことを知って、桐嶋が言った言葉も、噂で流れた。

『そうなんだ? 驚きだな』

 まるで責任のない言葉に周りは唖然としたが、支社長だけは笑った、というエピソード。

「それより、神田さん、帰れる?」

 周りを見ると、すでに帰る準備万端の秘書課の面々がいた。

「神田主任、この後、飲みに行きませんか?」

 そう言って誘ったのは、琳より三歳下の桜井朱里。綺麗系の顔立ちで、明るい性格の彼女はマーケティング部から去年異動してきた社員だった。マーケティング部門の異動担当は琳だったので、よく覚えている。そしてたった一日仕事をしただけだが、さすがに気配りが上手かった。桐嶋も信頼しているようで、二度ほど彼女に、琳もお世話になったのだ。

「ごめんなさい。これから副支社長のお供で、行かなければならなくて」

 目をパチパチさせて、その視線を少し泳がせる。

「そうですか。残念です。また今度、よかったら」

「ありがとう。今度ね」

 琳は自分のバッグを持って、中にスケジュール帳を詰める。

 そうして一足先にオフィスを出てから、一階のロビーへ向かう。

 すでに桐嶋は待っていて、琳はそばに急いで行った。

「遅かったな」

「桜井さんに、誘いを受けましたが、断りました」

「……やるな、桜井。だが遅かった」

 何の事だかよく分からないが、桐嶋は一人掛けのソファーから立ちあがって、自分のバッグを持った。

「いったいどこで、お会いに?」

「そこら辺の店だと思う」

「……そうですか」

 店の名前を知らないのは、と思いながら、誰と会うのかさえ聞いていない。けれど、今から聞くに聞けなくて。これからはきちんと聞いておこう、と思った。

 何も言わずに桐嶋の後をついて行って、ため息が出る。

 一日この人についていて、出来たことは少ない。主任という立場なのに、何かができたかと言われれば、それは出来なかったと言うしかない。まだ初日だからこんなものだろう、と自分に言い聞かせて、息を吸って前を見る。

 これからだから、と思いながら。

 

 

 琳は桐嶋の車に乗って移動した。いわゆる高級外車に初めて乗って、かなり緊張した。男性の隣に乗ったことがなく、一応琳も車の免許も車も持っているが、誰かと一緒に乗ったことはなかった。

「この駐車場に停めるか」

 スムーズに駐車場に入って、車を停めた。人通りの多い駐車場で、空いていてよかったと思う。車を降りる桐嶋の後ろをついて行って、大きなオブジェが置いてある広場に出る。

「神田、ここで待っててくれるか?」

「あ、はい」

「すぐに戻る」

 そう言って桐嶋は人の中に紛れてしまった。きっとここまで来て琳を置いて行ったのは、近くに分かりやすいものがあるからだろう。琳はオブジェの近くに立って、自分の腕時計を見る。やや薄暗くなってきていて、時間は午後六時を回っていた。一つ息をはいて、周りを見る。

「今日は週末だった」

 金曜日の夜だから、人が多い。土日休みなのが多いからだろうが、と思いながらため息が出る。

 一週間前の、あの時も金曜日だった。

 二年間付き合った人と別れた日。いつか結婚するのかもしれない、と思ったけれど、真面目な琳が彼には重たかった様子で、それをはっきり言われた。

 同い年で高校時代一緒のクラスだった人。二年前に同窓会で再会して、付き合うようになった。それなりに楽しくて、互いに好きだったと思っていたけれど、相手はそこまで思っていなかったらしい。

『真面目すぎるんだよ。付き合うイコール結婚なわけ?』

 ああ、重たかったんだ、と思ったのは別れ話の時。琳は普通に考えていたことで、だから一度だけそう言ったことがある。結婚を考えているなら、自分は無理だと言われて、琳はその場では泣かなかったが、家に帰って散々泣いた。

 そうして考えていて、桐嶋が戻ってこないのに不安を覚えて、辺りを見る。

「琳、じゃない?」

 振り向くと、よく見知った相手が遠くから歩いてきた。

「やっぱり琳だ。こんなところで何してんだ?」

 気軽に声をかけられて、琳は思わず固まった。

「人を待ってるの。今日は用事があって」

「そっか。俺はこれから飲み会。琳、ちょっと痩せたな」

 確かに少し痩せた。けれど、それは目の前のこの人のせいだった。

 一週間前まで、琳の彼だった人。こんなに気軽に話せるなんて、と思いながら、琳は距離を取る。

「誰と待ち合わせ? 男?」

 無神経、という言葉が浮かんで、でもこんな人だったな、と思う。琳は首を振って、さらに距離を取ったが、相手は距離を詰める。

「なんだよ、どうしてそんなに逃げるわけ?」

 手を掴まれて、その手を引くが、すぐには離れなかった。少し強めに引くと、離れたが。

「神田?」

 後ろから桐嶋の声がして振り向いて、思わずホッとして笑みを浮かべた。桐嶋の方へ行くと、なんだよ、と後ろから声が聞こえる。

「男、いるじゃん。っていうか、二股だった? 真面目そうなふりして」

 桐嶋が琳を見る。琳は後ろを振り向けなかった。顔が歪みそうで、というか歪んでいたと思う。

「口説いてる最中なんだ。真面目だから落ちなくてね。君、前の男?」

 桐嶋がそう言って、琳の肩を抱き寄せた。近くに桐嶋の身体を感じて、スーツに顔が近づく。煙草と、それを消すためだろう、香水の香りがして、琳は唇を噛みしめる。

「面倒だよ、結婚してとか言ってくるかも」

 どうしてそんなことを言うのか、と思う。けれど、こういうところをよくたしなめていて、それが喧嘩の原因にもなっていた。結局、琳が謝って、喧嘩を終わらせるけれど、そこが琳にとっては不満だった。

「見たところ、君よりも生活力があるから、大丈夫だろ。真面目で貞淑な妻が俺の好みなんだ」

 桐嶋がそう言って琳を見る。琳のために言ってくれた嘘だが、けれど何よりこの前まで付き合っていた、彼の言葉が痛かった。

 そうして、何も言わずに去っていくのを感じて、歪んだ顔から涙が零れる。

 二年も付き合っていたから、ただそういうことを考えただけ。そういうことを考える琳の性格を分かった上で、二股なんて言ってきて。

「あれ、元彼?」

 琳は涙を拭きながら頷いた。

「男を見る目、ないな」

「わかってます」

 分かってたけど眼鏡と一緒でフィルターを掛けてた。琳はバッグからハンカチを出して、頬を拭って顔を上げる。

「もっと自分が尊敬できる男と付き合えよ。神田の性格から見て、格が違いすぎるだろ」

「わかってます」

 どちらかというと、収入も琳の方が上だった。それに、その思考ももちろんそうだった。

 琳がそう言うと、桐嶋はため息をついて、琳を見る。

「今日は飲んで忘れることだ」

「……今日は社の重役の方々と会うのでは?」

 琳が桐嶋を見上げると、にこりと笑ってそうだ、と言った。

「今から重役たちと飲み会だ。本当はサプライズだったんだけど、まぁ、いいだろ。神田は真面目だから、歓迎会なんていいですからって言いそうだと、佐々木が言ってた。だから内緒で歓迎会を企んでたんだけど。知らないふりして、店に入れよ? いいな?」

 軽く背を押されて、桐嶋と一緒に歩きだす。琳は桐嶋の話を聞いて、涙が乾いてしまった。歓迎会なんて、確かにしてもらわなくていいと思っていただけに、恐縮する。

「重役たち、って誰ですか?」

「支社長、壱哉。それからマーケティングの宮川と人事、カスタマー兼任の偉智依。宮川の旦那、経理主任の坂下。カスタマーの課長、水川さんは来るかな? あとは、秘書課の佐々木以下すべてと、元課長の春海が来る予定だけど。もしかしたら他にも増える可能性あるんだ。みんな飲み会好きだし」

 桐嶋が歩きながらさらりと言って、琳は心の中で、なんで、と思った。

「私の歓迎会に、どうしてそんな……その、会社を仕切っている人たちが来るんですか?」

「それだけ世話になるからだ。神田主任、どうぞよろしく、ってこと。よきにはからって欲しい下心をもあるから、たくさん飲んで食べていい。それに、春海の送別会も兼ねてる」

 そうして歩いて向かった先は、ただの輸入住宅のような感じにしか見えなくて。けれど、小さな看板がそのドアにかけてあるから、店なのだと分かる程度。

 桐嶋がドアを開けると、そこは玄関というよりも大きなフロアで。

「遅かったな」

 目の前でクラッカーを鳴らしたのは篠原で、桐嶋はその中身を盛大にかぶって、悪かった、と言った。

「歓迎! 神田主任!」

 その後ろでいくつものクラッカーが鳴って、琳はその歓迎の仕方に目がくらむ。

 桐嶋から背を押されて、店の中に入って、桜井が側に来る。

「よかった、ちょっと遅れたけど、来てくれたんですね。ヒヤヒヤしました。幹事私なので、何か頼む時は言ってくださいね!」

 そうして腕を引かれて、並べられたお洒落なテーブルの前に座らせられる。

 目がくらんで、そしていかにも歓迎されているようなその様子に、先ほどの気持ちはほとんど薄れてしまった。そして、よく見知った人事の部長若木が隣に座って、お疲れ様、と言った。

「藍獅についてたみたいだけど、大丈夫だった? 今日は何もやらかしてないよね?」

 言われて首を傾げて、桐嶋が、偉智依、と咎めるような声を出す。

「俺がいつもそういうこと、してるように言うなよ。偉智依だって結構やるだろ?」

「っていうか、私たち同期はみんなやらかすわよねぇ。でも、人事は篠原の責任だから、知ったことじゃないけど」

 そう言って琳の隣に座るのは宮川で、マーケティング部の部長。女ながら本当にすごい人で、よく人事でも話しに出てくる人だった。

「ファインプレーも楽しんでるけど、やりすぎないように。ある程度は許すけどね」

 そうして目の前に座ったのは篠原で、その隣に桐嶋が座る。

 席を立つのにも気を使いそうな、そんな面々に囲まれて、自然に身体が縮む。

「春海は? 朱里ちゃん」

 遠くから佐々木の声が聞こえて、後ろを向くと、カウンターの中に入っていた、そして、ビール瓶とワイン瓶を琳の前に置いて、何やってんのかしら? と言った。

「もうつくと思います。メールが入ってました」

 琳が移動する少し前に退職した春海空という秘書課の課長は、支社長篠原と後ろ姿がよく似ている人、というのを覚えている。

 そしてドアの出入り口にあるベルが鳴って、長身のカッコイイ男が中に入ってきた。

 入ってきてそして、周りはため息をついて、春海、と篠原が言う。

「もう一回、やり直し。一回外に出ろ」

「なんですか、篠原さん」

「十秒後、入ってこい」

 分かりました、と言って一度外に出る。そうしてクラッカーを朱里が目の前に並べて、それを一つずつそれぞれ取る。琳も取るように言われて、みんなそれを構えた。

 春海が入ってくるのを見計らって、そして一斉にクラッカーを鳴らす。

「退院おめでとう! 春海課長!」

「……どうも、っていうか心臓に悪い送別会ですね」

 そう言って苦笑して、篠原の隣に座って、その隣に朱里が座る。

 退院ということは入院していたのだろうか、と思った。

 そうして目の前にワイングラスを置かれて、中に赤い液体を注がれる。にこりと笑ったのは、ハーフのような顔立ちのこれもカッコイイ人で、琳をじっと見る。

「京香の相方になったひとでしょ? どうぞよろしくね。ぼく、京香の夫のジョイスです」

 言われて頭を下げて、琳はにこりと笑った佐々木を見る。

「相方って言い方おかしいわよ、ジョイス。可愛いでしょ?」

「うん、カワイイ。カワイイけど、色っぽいね」

 そう言い捨てて周りに酒をついで回るジョイスを見る。

「エロいだってさ」

 桐嶋が笑いながら言って、その隣で篠原が苦笑する。

「確かに、なんか艶があると思うけど、エロいとは言ってないわよ、藍獅」

 たしなめる宮川も苦笑した。

「神田さんは人事部でも抜けられると困る人だったけどね。まぁ、エロいは言い得て妙かも」

 フォローしてくれるのかと思ったら、元上司の若木は琳を見て笑いながら言った。

「とにかく、主役がそろったから、乾杯しようか?」

 苦笑をかみ殺して、篠原がそう言ってグラスを上にやった。

「神田さん、これからどうぞよろしく。春海、退社しても桜井さんと仲良く。じゃあ、乾杯」

 桜井さんと仲良く、と言った言葉に引っかかりを覚えて春海を見ると、ばつの悪そうな顔をしていた。

 そうして、またクラッカーを鳴らしたのは桐嶋と篠原で。

「ちょっと、二人とも! 私にもかかるじゃない」

 クラッカーの中身が琳の顔に降ってきた。それを取って、思わず笑ってしまう。

「いいだろ、宮川。楽しいだろ?」

 そう言ってにこりと笑う桐嶋と目が合って。

 笑顔を返すと、桐嶋はグラスのワインを飲んだ。それにつられて琳もグラスの中のワインを飲んで。

 とても美味しくてそれを口に出すと、でしょう? と宮川が言って、琳のグラスに自分のグラスを近づけて鳴らす。

 歓迎会なんて、と思っていた。

 けれど、こんなに楽しい歓迎会なんて初めてで、琳は先ほどの辛い思いなんてすっかり忘れていた。

 そして、桐嶋に心の中で感謝をする。

 彼の前でかばってくれたことと、そして楽しいこの場に連れて来てくれたことを。

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【2013/10/13 09:27】 | Lipstick on someone's collar | トラックバック(0) | コメント(4)

Lipstick on someone's collar:1

「桐嶋部長、異動だそうです」

「は?」

「ですから、異動です、桐嶋部長」

 やや肉感的な唇がにこりと笑って、淡々と言った。

 それを聞いて、情報処理部門部長の桐嶋藍獅は、口の端だけで笑ってみせる。

「時期じゃないな、誰が人事異動したんだよ? 抜けられたら困る部下だっているのに」

「ふざけてます? 部長の、ですよ」

 サインを書くために走らせていたペンの手を止めて、まだ笑ったままの表情を見た。

「……今度はどこだよ? 言っとくけど、本社は却下だぞ、佐々木」

 秘書課の佐々木京香は、入社時から秘書課勤務の美人。結婚しているが、まだ子供はいないためか、三十過ぎても若々しかった。

「篠原さんが帰って来られます。末永くよろしく藍獅、だそうですよ」

 新たな書類を出しながら、そう言って笑顔を浮かべた。

「壱哉が帰ってくる、か。時期じゃないな、これも。……で? 俺は今度はどこに異動? 壱哉の代わりに本社はごめんだからな」

 書きかけのサインを書き終えて、藍獅は書類をトン、と揃えた。それを佐々木に渡すと、当たり前のように手を出して受け取った。

「末永く、と篠原さんが言ったとおり、日本支社のままですよ。いつかはまた、他の支社へ、ということもあるかも知れませんけど。先ほど、人事部の神田さんから仮の辞令を受け取りました。どうぞ」

 人事部の神田、と言われてもピンと来ないが、仮の辞令、というのを受取って、それを見て。

 眉をしかめたのはしょうがないことだった。

「なんだこれ?」

「篠原さん直々だそうです」

「なんで壱哉が直々にこんなことするんだ? 支社長にでもなったのか?」

「その通りです。本社からの辞令で、支社長に抜擢され、戻ってこられる、と」

 佐々木を見ると、嘘か本当か分からないような笑みを浮かべている。というか、いつも藍獅の前ではこんな表情ばかりで、正直ため息が出る。

「お前、俺のこと嫌いだから悪戯してないだろうな?」

「人聞き悪いですね。私は桐嶋部長に悪戯なんてしたことありませんが」

 ため息をつきながらそう言うが、そうとしか思えない内容に、こちらもため息が出る。

「書類チェックとサインと、辞令の返事を篠原支社長によろしくお願いします」

「電話でいいのか?」

「篠原さんはこちらへ帰ってくるので、残務処理で忙しいみたいです。書面で返事を、とのことでした。で、その書類はこちらです。神田さん、待ってますよ」

 書類を机に置かれて、また書類か、と思う。

 部長になって四年。本当につまらないポストに就いたと思う。毎日書類にサインと判を押して、そして会議と、部下の管理。もう辞めてやろうか、と思っていたのにこれでは辞められないじゃないか、と心の中で愚痴る。

「人事部が待っているなんて。俺が拒否するとか、そういうの思わないのか?」

「篠原さんが、拒否するのであれば、直接交渉をする、と人事に言ったそうです」

「強引だな、あいつ」

「それだけ、頼りにされてます」

 光る唇が弧を描いているのを見て、煽てが上手いな、と思う。

「秘書は大変だな。上司を褒めて讃えなくちゃならないなんて」

 口ではそう言いながらも、さっさと承諾の返事を書いて、佐々木に渡す。

「誉め讃えているわけではないですよ。桐嶋さんは事実、篠原さんの隣にいて遜色ないと思いますから」

「はいはい。どうもありがとう、佐々木。人事部、待ってるんだろ?」

 頷いて、受け取った書類を見て、そしてこちらを見た。

「相変わらず、癖の強い字で」

「右上がりと言いたいんだろ? 読めると思うが」

 そう言って、立ち上がって、少し伸びをした。書類整理でさすがに疲れて、そろそろニコチンも尽きてきた。そして、どんな人事部の社員が来ているか、と思い、スイッチを押して窓のスクリーンをオフにした。プライバシーのためか、スイッチ一つで窓がすべて黒になる特殊なガラスを使用している。これはこれで気に入っているが、初め見た時はさすがに驚いたものだった。

 そうして待っていると言う人事部の神田を見て、思考が声で漏れた。

「……エロい女」

「……どこがです?」

 佐々木から答えられて、自分の考えを口にしていることに気付く。そうして気を取り直して、藍獅は指をさした。

「足首からストッキングが伝線してる。それに前スリットのタイトスカートに、きっちりと着たジャケット、まとめ上げた髪の毛。おまけに眼鏡」

「それのどこがエロいんですか? 神田さんはいたって真面目な社員ですが」

「男の目から見たら、エロいんだよ。性格も真面目だなんて、余計に、だな」

「……桐嶋さん、彼女をそういう目で見ないでください。本当に真面目で丁寧で、貴重な人材なんです。秘書課に欲しいくらいですよ。おまけに謙虚で、可愛いし」

 確かに可愛い顔立ちをしていた。やや童顔で、だからこそ眼鏡がどこか浮いているような気がする。それに、胸も腰もあるが、線が細いところがまた、男心を惹いた。

「彼女に言いますよ?」

「どうぞ。俺の性格はこうだって、あいつも知ってるから」

 付き合って長い恋人がいるのは、佐々木はよく知っている。社内恋愛なんて珍しいことじゃないし、いたって健全な付き合いだと思っている。

 ただ、結婚とかそういうものを考えられない人だったが。

「失礼しますね、桐嶋さん。午後の会議、遅刻しないで下さいね」

 わかった、と言ってスクリーンをオンにした。

 佐々木はにこりと笑って、そうそう、と言った。

「彼女の日高さん、中国支社へ異動だそうですよ」

 秘書課というのは最新の情報が得られる場所でもあった。他の社はどうかわからないが、この会社ではそうだった。佐々木の口から異動の話を聞いて、そうか、と答えるのみ。

「通達はまだ三日ほど先ですが、一応お耳に、と思いました」

「余計な情報だな」

「そうかもしれませんが、さすがに同期ですから。何となく結末は、分かっていますけどね」

 藍獅は今度こそ失礼します、と言って出て行く佐々木を見送ってから、椅子に座る。

「異動、か」

 呟いて、そして眉間に皺が寄る。いったい何年付き合ったか、と数えて確実に五年は経っているな、と思った。その間、結婚しようと思ったことも、それを口にしたこともある。けれど、彼女がそれをもう少し待って、と先に延ばした。いろいろな仕事にかかわるうちに、仕事が楽しくなったらしい。そして主任というポストに就いて一年足らず。そろそろ異動の話も出るか、と思っていたらその矢先だった。

 彼女を待っている間に、結婚はないだろうと思ったのは早かった。きっと彼女もそうだろう、と藍獅は思う。

「話するだろうな」

 自分の周りが目まぐるしく変化をしようとする中で、すぐに考えがまとめられないのはしょうがないことだった。

 そして目頭を揉んで、コンタクトのズレが生じてしまう。

「痛えな」

 藍獅は目から一度それを外して、引き出しから洗浄液を取り出す。

 クリアでない視界と一緒で、いつもは感の働く藍獅も、先はまだ見えていなかった。

 

 

 いつか話しを持ちだすだろうな、と思っていたが、予想に反することなく、それは遅かった。話を持ち出すのはきっと彼女の方からだろうが、性格上、考えに考えて話をするだろうと思ったからだ。

 けれど、話そうとしないのも彼女らしくて、藍獅はそれを促すために口を開いた。

「話があるんだろう?」

「……分かってるくせに、藍獅は何も言わないから」

 笑ったその顔はいつもの顔だったが、やや陰りがある。それを見て、一口ワインを飲んでから口を開いた。

「中国支社は最近伸び盛りだから、優秀な人材が欲しいんだろ。その点では、良美は合格だ」

 実際、仕事ができる女はいる。同期の宮川は特にそうで、藍獅の彼女の日高良美はそれに敵わない。が、それなりに努力をするタイプだから、今のポストに就いているのだろうと思う。

「優秀なのはあなたたちでしょう? 若木さん、宮川さん、篠原さん、そして藍獅。みんな経済学修士取得済みで、日本支社からは動かせないって言われてた。篠原さんとあなたもそうだけど、他の支社へ移動しても、結局呼び戻されて」

 若木と宮川、そして壱哉は会社の方針でアメリカに留学してから、経済学修士を取得していた。藍獅は大学から留学していて、二十二の頃はすでに経済学修士を取得していた。入社した時期は一緒だが、藍獅はスタートが他の優れた三人より早かった。が、結果は優秀で頭もよく、そして人目を惹きつけるような同期、篠原壱哉は藍獅の上を行った。

 それにホッとしたのは藍獅の方で、面倒はごめん、という性格だから上へ行くのは本当に嫌だった。けれど、結果的に勤続年数も長くなり、任される仕事を正確に着実にこなして行く中で、評価されて部長までになったのは、あまり望まないことだった。

「副支社長に、なるんだって?」

「……まぁね。壱哉から任命されたから、受けたよ」

「凄いのね、藍獅。でも、それが当たり前のように思えるから、本当にすごい」

 声に出してそう言って、何を思っているのか大体分かる。こういう所が、面倒だと思っていた。好きなのだが、その負けず嫌いすぎる性格は玉に瑕で。

「それで、どうする? 良美」

 藍獅が言うと、良美はこちらを見る。

「どうするって、どうすればいい? 別れるしかないでしょ? 結婚なんてする気がないくせに」

「それはこっちの台詞だ。キャリアなるから、行きたいだろう? 中国支社」

 藍獅が強く言うと、良美は押し黙った。そして、しばらくして、ええ、と口に出す。

「行きたいと思う。私は、そう、結婚なんて考えてなかった。……でも、好きだったから付き合ってた。これは本当」

「ありがとう、俺も好きだったよ、良美」

 藍獅が過去形で言うと、良美は息を吸った。

 キャリアが大事、それはよく分かっている。初めから上昇志向の強い人だから藍獅も惹かれた。

「遠距離なんかあり得ないから」

「奇遇だな。俺もそう思う」

 藍獅がワインを飲みほしてグラスを置くと、唇を引き結んだ良美がこちらを見た。

「部屋を取ってるの。最後に、しない?」

 言われて間髪をいれずに、藍獅は答えた。

「やめておく。そういうこと、別れ話したあとしない方がいいだろう?」

 それに頷く細い首に、何度顔を埋めただろう、と思う。

「わかった」

「支払はしておく。気をつけて行ってこい。それと、元気で」

 藍獅はナプキンを置いて立ち上がる。

 藍獅は後ろを振り向かずに、食事の支払いをカードで済ませて、その場を後にする。

 どこか軽くなったような肩を感じて、首を捻る。

 別れるということはここまで力を使うのだ、と思った。これだけ力を使うのだから、同期の支社長になった壱哉は、と思いながら、顔を思い出す。

「どうなるかな、これから」

 気持ち的にはたいしてやる気は起きていない。

 けれど、同期の篠原壱哉には応えなければ、とは思う。

 ため息をつきながら近くにあったタクシーに乗り込んで、藍獅は疲れた目を瞑った。

 

 

 副支社長になると、周りの目線も変わっていった。たまについていた秘書が、年中つくようになってそれだけで息が詰まった。メインの秘書は主任の佐々木京香で、さすがに秘書課に長いだけあって、仕事ができた。二日か三日に一回、秘書の人員は変わるけれど、自分を管理されているようで何となく嫌だった。

 支社長として帰ってきた篠原壱哉も同じようなことを言っていたが、彼自体がしょうがない、と受け入れているため、そこは何も言わない。なにより、融通がきいて頭の柔らかい、秘書課課長の春海空がついているからだ。

 けれど、それも役職のせいか、と思いながら我慢していた。佐々木も融通が利くので、わりと好きにさせてもらっているし、しょうがないか、と思う。

 人事権を与えられたという壱哉は、人事には本当に気を使っていた。そういう時に、いきなり結婚式をすることになり、そして結婚式を挙げて。その壱哉の新たな妻になった女性はセンシュアルで、綺麗可愛い細い女性。雰囲気があって、色白だった。壱哉がおよそ付き合ったことのないような女性だったが、それでも二人はとても似合っていて、むしろ前の妻よりも藍獅にとって好ましい人だった。

 そんなときに、今まで頼りになっていた社員が、どうしても辞めなければならないことになった。しょうがないことだが、藍獅もそれは頭が痛いことだった。

「人事の件で相談があるんだ」

 案の定相談されたその内容は、分かってはいるが一応聞いた。

「なんだ?」

「春海が今会計年度で退職するんだ」

「……ああ、そっか。社会科見学は終わり、ってこと?」

 春海は総理大臣の息子で、周りの反対を押し切って会社勤めをしていた。本来なら、議員秘書などになって今頃は議員になっていてもおかしくない年齢。

「今、入院してんだろ?」

「そう。何のストレスか、胃潰瘍でね。働かせすぎたかな?」

「まさか。あれの原因は桜井だろ?」

 藍獅が言うと壱哉が笑って藍獅を見る。

 春海は平静を装っていたが、会計年度の初め辺りに異動してきた桜井朱里に、好意を持っていた。最初は喧嘩ばかりしていたような感じを受けるのに、どうしてかそうなった。

「当たらずとも遠からず、かな。まぁ、どうであれ、決めていることがあるんだ。提案していい?」

 藍獅が頷くと、壱哉は淡々と言った。

「今は兼任させているけど、佐々木を課長にする。秘書課で十年以上働いているし、それが妥当だと思う」

「主任は? まぁ、あそこは別にいなくてもいいだろうが、人員が減ると上の役職がうるさいだろ? 管理してもらってるしな」

 部長クラスは、支社長、副支社長のように常時秘書がついているわけではない。が、スケジュールや、その他イベントや情報などは、秘書課の人間がかかわって管理している。

「とりあえず、しばらくは様子を見るけど、一人だけ気になる人がいて。その人を推そうかと思ってる」

「主任に?」

「そう。今の秘書課の人員で考えられる人はいないから、別の部署から移動させようかと」

 壱哉が気になる人、というくらいだからきっと仕事ができるんだろう、と思う。黙って頷いて、その先を促すように、それで、と言った。

「今の主任クラスを動かすと、後が大変そうだから、平社員を昇格させる」

「どこの誰だ?」

「人事部の神田琳。本当は男を入れたかったけど、その人以外、いなくてね」

 神田、という名前に聞き覚えがあるような気がしたが、藍獅はそれをスルーした。

「どんな人か知らないが、いいんだろ、その人」

「真面目で丁寧な仕事をする。僕の時も担当でね。住む場所とかいろいろ世話になったんだ。人事部部長の若木も神田さんなら、と推してくれている」

「偉智依がそう言うなら、心配ないだろう。壱哉も、その人がいいんだろう?」

 壱哉が頷いて藍獅を見る。

「藍獅もきっと気に入る」

 にこりと笑ったその顔を見て、何も思わないわけじゃなかった。

 しかし、その笑顔の真意を測りかねて、藍獅は微妙に笑顔を浮かべた。

「壱哉、何か……いや、いい」

 意外と策士な面がある壱哉で、表情を見る限りでは何か策を弄しているように思えた。

「藍獅、今君に辞められちゃ困る」

「辞めるなんて言ってないだろ?」

 そうかな、と言って笑う壱哉を見て、見抜いているな、と思った。副支社長の椅子は意外と面倒で、窮屈だった。いつもため息ばかりついている藍獅を、見ていたのだろう。

 そうして藍獅も笑って応えた。

 今回ばかりは、自慢の感もあまり働かなかった。

 それはしょうがないことだが、後にちょっとした痛い目を見ることになるとは思わない。

 

 

 用事があって、支社長室に行った。ちょっとしたことだったが相談したいと思って、インターホンを鳴らして、入っていいと言ったから入った。

「いいよ。ちょうど、紹介したい人がいる」

 そうして中に入ると、知らない女が一人立っていた。

 黒いフレアのシャツワンピース、同じ黒のたいしてヒールの高くないパンプス。黒い髪の毛は綺麗にまとめ上げられて、花の形をした大きなバレッタが目を惹く。

「神田琳さん。今度秘書課に異動して、主任になる人」

 壱哉がにこりと笑ってそう言った。言われて、こちらへ向き直る女の、その大きな目は真面目な銀縁の眼鏡が覆っている。頭を下げるその仕草は、完璧だった。

 神田という名前に覚えがあるのは、当たり前だった。

 藍獅の異動を伝えにきた、人事部の社員。

「なんか、エロいよな。こんな人が秘書だなんて」

 初めて見た時も、黒のスーツを着ていて、きっちりとまとめ上げた髪型をしていた。そして同じような黒のパンプスの踵から、ストッキングが伝線していて、それがやけに目を惹いた。

「それは言い得て妙だけど、失礼だ」

 苦笑顔で言う壱哉に、藍獅も笑う。そして、続けて口を開く。

「綺麗にまとめた髪の毛に、カッチリとしたスーツ。大きめな目に、真面目そうな眼鏡なんて。なぁ、壱哉?」

 こういう言い方をしたら、どんな顔をするのか、と思った。この真面目そうで、エロい女は。

「だから、失礼だ、藍獅」

 さらに笑う壱哉は藍獅をたしなめる。

「が、外見は関係ありません! それに、いきなり秘書課へ異動になったのに、そんなこと言われるなんて心外です。私は、いたって真面目ですので」

 藍獅の言うことに反論するように言って、目を瞬かせる。

 その仕草がどうにも面白くて、可愛いと思った。本当に真面目なのだろう、と思いながらからかうのはこれくらいに、と思う。

「副支社長の桐嶋藍獅です。これから世話になることも多いでしょうが、どうぞよろしく」

 藍獅が手を差し出すと、ゆっくりとその小さな手が藍獅の手を握る。軽く振って、そして手を離そうとすると、その相手がためらいがちに声を出した。

「こちらこそよろしくお願いします。神田琳です。一緒に働けて光栄です」

 緊張した声を聞いて、その手を離すと、琳は少しだけ顔を下へ向けた。

「あの、一度戻らないと。仕事が詰まってますので、失礼してもよろしいでしょうか?」

 壱哉がいいよ、と言うと琳はまた完璧に頭を下げて、支社長室を出て行く。

 その綺麗な細い脚を普通にじっと見てしまう。

「どうだった? 藍獅」

「いいんじゃないか? 新しい主任なんだろ?」

「気に入った?」

 その言い方を聞いて、どこか引っかかりを覚える。

「藍獅、ああいう人、好きだろう?」

「……は?」

 藍獅は瞬きをして、壱哉を見て首を傾げた。

「だから、好みだろ? 日高さんみたいな外見が真面目なタイプよりも、本当に真面目で勤勉な人。細いけど胸も腰もある身体が好きだよな、昔から」

 まるで女を宛がうような言い方だった。

 壱哉にしては珍しいことだ。

「……なんだよ。何が言いたい?」

「神田さん、藍獅の担当にした。副支社長の椅子は窮屈だろうけど、これからは神田さんが君を管理するから、多少我慢して欲しい。僕は君を頼りにしているから」

 そうしてにこりと笑って、藍獅の肩を軽く叩いた。

「言ってる意味分かるよな? 辞めないでくれ、藍獅。神田さんをつけたことに免じて」

「……色気で落とす気か?」

「彼女は出来るよ。色気は副作用と思ってくれるとありがたいね」

 藍獅は最大のため息をはいて、壱哉を見る。

「性格悪いよな、お前。……そんなことしなくても辞めないさ」

「そうかな? 藍獅は王様気質だから、簡単に辞めそうだと思ったんだが。とりあえず、神田さんをつける。もし不満があったら、支社長の僕に言ってくれるかな?」

 そこまで言われて辞めるとかそういう言葉を言えるわけがない。

 というか、辞める気はあったが、支社長にここまで言わせて、そういうことをするわけにはいかない。

「わかった」

「ありがとう」

 壱哉がにこりと笑って、藍獅を見て。

 嵌められたな、と思った。

 壱哉と藍獅は似ている部分があって、だから互いのことも分かっているような、戦友みたいなもの。

 だから本当に好きなタイプの女とか、そういうのが互いによく分かっていた。

 壱哉が今の妻のことを選んで、本当に好きで結婚したのも、藍獅にはよく分かる。

 神田琳は、藍獅の中でそそる女の部類に入っていて、かなりのストライク。

 藍獅は壱哉の隣で頭を抱えた。

 辞める理由はいくつかあったのだが、好みの女が近くにいるのも悪くない、と思い始めているから。

【2013/10/13 09:23】 | Lipstick on someone's collar | トラックバック(0) | コメント(2)

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